個人的に、暗黒の1カ月だつた。
自治体が実施してゐる「住民健康診査」といふ名の無料の健康診断を受診したのは1月25日である。最近行くやうになつた近所の医院で受けた。
これまでは年に一回、夫婦で帝国ホテル別館のITクリニックで1泊ドックを受けてゐた。どちらかといへば帝国ホテルに1泊することが楽しみなドックだつた。
リタイアして、会社の健保組合からの補助金が出なくなり、ドックは1人7万円もするのでどうしようか迷つてゐたところに、「住民健康診査」の知らせが来た。
「診査結果」は地域の医師会に送られ、そこで一括して診断が下される。
3月1日、医院に行くと、
「胸のレントゲン写真に小さな影があります。ほら、ここです」
「はあ…」
「精密検査を受けてください」
「肺がんの疑ひといふことですか」
「さうとは限りませんが、何かできてゐるといふことです」
医者の前だと血圧が10ほど高くなる「白衣恐怖症」だ。 「当面、経過観察で様子をみるといふのはどうでせうか」 と恐る恐る尋ねた。
「いや、すぐ精密検査を受けてください」
一気に頭は「肺がん」でいつぱいになつた。 家に帰つて、ネットで「肺がん」「肺がん 精密検査」「肺がん 自覚症状」などを検索する。
男性のガン死の1位。自覚症状はない。他の臓器への転移が早い――暗い情報ばかりだ。
昨年の文学賞受賞以来、初めて某出版社の少し「アテ」のある400枚の小説も書きかけである。いまや会社勤めではないし、女房子供にも心配はいらないが、今すぐ闘病生活に突入するのはイヤだな、と思つた。
その10日後、東北大震災が発生した。テレビで見る津波の猛威は、この世のものとも思へなかつた。家も車も、おそらく人も、真つ黒い津波に消えて行つた。
福島原発とは200キロほど離れてゐるが、放射能汚染は怖い。本格的なメルトダウンとなれば、水道水程度の被害でとどまるはずはない。
大震災を報じるテレビを見てゐて、家族のゐない時、不覚にも涙を流した。
新聞記者として40余年、ずいぶん悲惨な現場も見て来たが泣くことはなかった。
自分の体に起つてゐる命の破損と、大震災による破壊の光景が、どういふわけか心の中で一つにつながつた。
自分と世界の破滅が同時進行で進んでゐる、といふ実感は奇妙なものだつた。3万人近くも一瞬に命を落とすのだから、自分がこの先、肺がんで死んだところで何のふしぎがあるだらう。
別の病院でCTの精密検査を受けたのは、地震から4日後の3月15日だった。
器械に体を横たへながら、このところ嫌でも知らされる知識で、いま6900マイクロ・シーベルトの放射能を浴びてゐるんだなと思つた。
昨26日、精密検査の結果説明を受けに病院へ行つた。
「何でもないですね」
と40代くらゐの医師が笑つた。
「歳をとると、肋骨から少々軟骨がはみ出すことがあるのです。CTに何も映らないから、レントゲンの影は軟骨の影です。問題ありません」
僕の暗黒の1カ月は終はつた。
「世界の破滅」から取り残された気がして、妙な感じだ。
