散歩に出かけようとすると、「帰りに花屋さんで、薔薇の花を何本か買つて来てくれますか」 と家人が言ふ。
 
 いい歳をしたをぢさんが薔薇の花をぶらさげて歩くのもなあ、と思つて返事をためらつてゐると、「あなたは長もちする花を選ぶのが上手だから」と人使ひがうまい。おだてられちやあ、断るわけにはいかない。
 
 「喪中につき、新年のご挨拶を失礼させていただきます」といふはがきが舞ひ込む季節になつた。ぼくもさういふ歳になつたのかと愕然とするが、同期入社の男や後輩からも届く。
 
 ぼくは会社の同僚や、飲み仲間や、仕事で付き合つた政治家などで、あるとき、 「この人は早死にしさうだな」とふと思ふことがある。神がかつた言ひ方だが、だいたいその通りになる。
 
 人相やら呼吸法やら食べる物の嗜好やらからさう思ふのではない。まさに「なんとなく」である。
 
 テレビドラマに出てゐる俳優、コマーシャルによく登場する女優など、直接会つたこともなければ経歴もまるで知らない芸能人、つまり赤の他人を見てゐて、ある日、「この人は生理機能的に頭が良くないのではないか」と信じることがある。
 
 簡単に言ふなら、「子供のころからバカだつたのではないか」と思ふ。演技、発言、笑ひなどを見て分析した結果ではない。突如、さう感じる。
 
 薔薇の花も、人の早死にも、芸能人の頭脳も、さう判断する客観的、合理的、科学的根拠は全くない。いふならば「直感」だ。動物的感覚とでもいふべきものだらう。
 
 こんなことは他人には言へない。理由を問はれたら説明できない。でも、ぼくは自分の直観力を大切にしてゐる。
 
 誰もが持つてゐる直感力は、それを無視しないで、一笑に付さないで、大切にすることで、より繊巧なものに磨かれるのではないか。
 
  
 「あいつより うまいはずだが なぜ売れぬ」
 亡くなつた女優森光子が若いころ、自分より演技のヘタな役者の評判がいいのを嘆いて詠んだ一句だといふ。
 
 一人の売れつ子俳優の下には、このやうな疑問を抱く無数の無名俳優がゐるに違ひない。実際に「あいつよりうまい」役者だつたかどうかは分からない。しかし、本人はさう信じてゐた。
 
 さうして自分の芸を過信すること、それがプライドとなつて、売れない多くの俳優の支へになつてゐる事情は、たぶん今も同じだらう。
 
 芸能人に限らない。自分の力を過信することがプラスに働くことは少なくない。80歳で都知事の職を投げ出し新党を興した石原慎太郎氏の太陽エネルギーはそこからもたらされてゐるのだらうし、だれが見ても敗戦濃厚な衆院選に踏み切つた野田首相(民主党代表)の蛮勇もさうであるとしか思へない。
 
 冷静に考へれば、いくら新党ブームとはいへ、こんどの衆院選で民主党や自民党に対抗できる「第三勢力」なるものが結集できるわけはないし、野田首相の生き残る道はもはやない。
 
 それでも石原氏も野田氏も決断した。その背後にあるのは自己への過信といふべきだらう。
 
 「もしかしたら第三極をまとめることができる」
 「もしかしたら民主党は言はれてゐるほど大敗しない」
 と信じたからこそ決断した。世間ではこのやうな、何の根拠も裏付けもない判断を「勘違ひ」といふ。
 
 20年ほど前から、選挙情勢に関してマスコミ各社が実施する世論調査(1000人以下の規模のものは除く)の精度はおどろくほど向上した。
 
 それまでは世論調査の結果があまりに「常識外れ」な数値だと、記者や地域の選挙ブローカーの「常識」で微調整といふ名の修正を加へてゐた。ある時期から、修正しないほうが選挙結果の数字に近いことに気づき、世論調査の数字を裸のまま発表するやうになつた。それ以降、新聞社などの世論調査と選挙結果とが大きく異なることはなくなつた。
 
 世の中には「しあはせな勘違ひ」といふものがある。結婚もさうだらう。恋愛はお互ひが愛し合つてゐると勘違ひしてこそ成り立つものだが、その勘違ひに後で気がついて離婚するのは3組に1組程度で、あとの2組はそのまま幸せな結婚生活を送る。
 
 石原氏と野田氏の場合がもしさうなら、それはそれで結構なことといふしかない。
 ことしは郊外へ行つてコスモスの花をじつくり楽しむ機会を逃した。
 人の背ほどに伸びて、一面を赤や白や黄に染め、放恣に咲き乱れるのも好きだし、農道のわきに謙虚に一輪咲いてゐるのも好きだ。
 
 散歩の途中、花屋の店頭に鉢植ゑのコスモスが並んでゐた。
 「これ、日持ちしますか」
 「ええ、根を張つてゐますから、水をしつかり与へてくれればかなり持ちますよ」
 
 一鉢買つて、部屋の隅に飾つた。花は淡いピンクと紫の二種類で、突然リビングに草原が持ち込まれたやうに、アウトドアの気分がただよふ。鉢の受け皿に溢れるくらゐ水をやつた。
 
 翌朝、リビングに入つてきた家人が、「なに?この匂ひ」と周囲を見わたす。前日と変はつてゐるのはコスモスだけである。
 
 「そんなにをかしな匂ひかなあ」
 ぼくも鉢に鼻を近づける。いつも臭気には家人のほうが過敏だ。
 
 コスモスのかをりは、花には違ひないが、すこし長い時間嗅いでゐると、ややきつい、鼻孔の奥を刺すやうな刺激臭がある。
 
  「ここには向かないかな」
  買つて来た手前、気を遣ふ。
  「さうね。物を食べる部屋にはねえ」
  「廊下に出すか」
 
  受け皿の水をこぼさないやうに運びながら、この花は「やはり野に置け蓮華草」のたぐひかなと思ふ。野原ならこの匂ひの強さに気づく人はゐない。
 
 東京都知事を急に辞任した石原慎太郎氏は、後任に猪瀬直樹副知事を推薦した。推薦したといつても「猪瀬君で十分だ」といふ言ひまはしだから、これがベストとは考へてゐないらしい。
 
 猪瀬氏には頼まれごとをした経験がある。
 週刊誌の編集長をしてゐるとき、猪瀬氏が訪ねてきた。オウム事件で名を売つた女性ジャーナリストの裁判傍聴記の連載をやらないかといふ売り込みだつた。
 
 当時バリバリの売れつ子評論家は、この手の商談も巧みだつた。原稿料、連載の体裁などすべて編集部の意向に従ふから、4ページだけ確保して頂きたいといふ。
 
 オウム事件はまだ裁判中だつたし、地方紙記者上がりの女性ジャーナリストもテレビの報道番組に出演したりしてある程度売れてゐたので、ぼくはこの連載に乗つた。
 
 なぜ猪瀬氏が彼女の連載の口利きをしたのかは謎だが、猪瀬氏はぼくの目に、マスコミ事情に通暁した、有能な男と映つた。
 
 石原氏が都知事の仕事は「猪瀬氏で十分」と言つたのも、猪瀬氏の「副知事としての」働きを認めたからに違ひない。
 
 猪瀬氏の名が石原氏の口から出たとき、ふとコスモスを思ひ出した。「やはり野に置け」といふことばとともに。