レストランの半円形のベンチ席に、絹のつややかな光輝を連ねた一団がゐる。近くに官幣大社の神社があり、季節にはその一画で茶会が催される。その流れの女性たちらしい。
ベンチ席の中央に、打ち見ただけで一座を取り仕切つてゐるとわかる、縦の長さと横幅が同じくらゐの長老がゐて、八十歳に手が届かうかといふその女性の言ふことに、一同は頷いたり笑つたりしてゐる。異を唱へる者などゐない。
三十代の終はりに江戸千家の茶名・無為庵雄雪をいただいてから、僕も大小とりまぜて、茶会にはずいぶん顔を出した。僕には「茶の湯」の奥義がどうもつかめない。
長姉は裏千家、次姉は大日本茶道学会のそれぞれ師匠をしてゐて、小さなころから茶会の雰囲気には接してきたが、「これが茶の心だ」といふものがいまだに分からない。
ぶつちやけた話をすれば、「茶の湯」といふものは、一つにはおカネと暇のある女性たちの暇つぶしとしか思へないし、茶会は最近誂へたきものを友人に見せるための社交場であり、ある種の男たちにとつては日本趣味を懐古する自己満足の場にすぎないと思ふ。
もちろん、三、四十年も親しんできて茶の神髄が分からないといふのは、偏にわが方にわびさびの情趣を受け入れる下地がないからだが、ではあの鋭敏な季節感と典雅な色彩にいろどられたお召し物を身にまとはれた女性たちが、果たしてどこまで茶の心を理解してゐるかとなると甚だ怪しい。
一期一会とか無とか和とか、茶の心をあらはす言葉は豊富である。それが人の世の真理であるかのやうなことも言はれる。しかし、僕には茶道といふものが、どこか人間の本質と遊離してゐるやうな気がしてならない。自己抑制、無心、周囲への気遣ひ、過度の礼節と恭謙……。茶に求められるさういふものが、人間性に反した無理難題に思へてならない。
お点前の最中、その気になつた女性が客のイケメンを水屋に引つ張り込んで、帯やきものをかなぐり捨てるーーそんな人間らしい情念の発露が許されるやうになつたとき、茶道は現代に華やかな隆盛をみせるのではないか。
誤解のないやうに付言すると、僕の流派は「弟子ゐま千家」である。
