あひ見ての のちの心にくらぶれば
 昔はものを 思はざりけり 
  (あなたを知るまへは、こんなに思ひ悩むこともなかつたのになあ)
 
 権中納言敦忠はかう詠みましたが、ぼくのいまの心境は
 
 リタイアの のちの心にくらぶれば
 昔はものを 思ひ過ぎたり
 
 といふところです。
 
 最近、夢にみるのは大半が現役のころの仕事の場面です。
 同僚先輩との関係、記者クラブでの他社の人間とのつきあひ、取材対象との微妙な駆け引き……会社の慰安旅行や、出張先でのできごとなどがしばしば登場します。
 
 夢には愉楽の思ひ出よりも、悩んだり失敗した思ひ出がひんぱんに出てくるのですが、そのほうがより強烈で、こころに刻まれてゐるからであることは言ふまでもないでせう。
 
 その頃にくらべると、リタイアしてからは周囲に気遣ひをすることが激減しました。日々他人と顔を突き合はせることが激減したのですから当然といへば当然なのですが、他人との摩擦をあまり意識しなくなつたといふ一面もあります。
 
 簡単にいへば、鈍感になつたといふことです。さらにいへば、そして実はこれが重要な点だと思ふのですが、自分から「鈍感であるやう」努めるやうになつたのです。
 
 鈍感であることのほうが楽だからです。もつと正直に言ふならば、「鈍感を装ふ」ほうが楽だからです。
 
 聞こえてゐることでも聞こえないふりをする。まともに見てしまつたことでも、見えなかつたことにする。かうしてあげるのが人間関係を築くうへでは大切だと分かつてゐても、気づかなかつたふりをする。露骨で嫌味なお世辞を言はれたら真に受ける。
 
 今にして思ふと、現役のころこの術を身につけてゐたら、どんなにか毎日がうきうきとして、浮薄にせよ晴朗な日々を送れてゐたに違ひありません。「努力して鈍感であること」は、一つの生きる知恵ではないでせうか。
 
 こんなことを昔の仲間に言へば、「あんたはあのころから十分鈍感だつたよ」と言はれるかもしれないので、口には出しませんが。
その小説を読み始めるとから、たとへば金属バットで背中をなぐられたやうな異様な感懐を覚えました。
 
こんどの芥川賞の候補作品に選ばれた黒田夏子氏の「abさんご」(早稲田文学5号所載)です。まづ作品の冒頭部分を引用します。
 
a というがっこうとb というがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいたにちほどがあったがきかれた小児はちょうどそのれていくところだったからa にもb にもついにむえんだった。そのまよわれることのなかった,半せいきしてゆめのされなおした,見あげたことのなかったてんじょうふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおをさだめようとしてすこしあせりそれからとてもくつろいだそこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえないさのうちへどちらでもないべつの初等教育からたどりはじめた日月のはてにたゆたいざめたみゃくらくもなくあふれよせる野生小禽たちのよびかわしがある。
 
 この小説は横書きで書かれてゐます。文章にはひらがなが多用されます。読みにくい、意味が取りにくいところもありますが、かういふ調子で全体が貫かれてゐます。
 
人名や地名、動植物の名前や日常生活に用ゐられる道具など、いはゆる固有名詞は出てきません。会話のカギカッコ(「 、 」)もないし、現代の日本文ではほとんど不可避のカタカナ表記も登場しません。
 
同人雑誌ならこのやうな前衛的な試みの文体もめづらしくないでせう。最近の文学賞の募集要項には「日本語表記の小説であること」といふ断り書きもあるさうですから、ローマ字の小説とか英語で小説を書く日本人もゐるのかもしれません。
 
 しかし、この小説は昨年の「早稲田文学新人賞」の受賞作品であり、それを受けて今回、芥川賞の候補作にノミネートされたのです。つまり、いまの文芸評論家や文学ジャーナリズムがかういふ小説を立派な現代小説として認めてゐるわけです。
 
 ぼくはことばの変遷とか揺れにはわりあい寛大で、世間の51パーセントがそのことばを遣ふやうになつたら、現代語として認知されてしかるべきといふ考へ方です。が、正直言つてこの黒田夏子氏の文章には閉口しました。
 
 一部の評論家はこの小説を評して、日本語の新しい地平線が見えるかのやうな評価を下し、「紫式部のやうな艶冶な文体」といふ人もゐると聞きます。
 
 歴史的仮名遣ひに固執するほど古い人間から言はしてもらふと、黒田夏子氏のやうな文章がもし現代の文章の模範であるならば、日本語の地平線に見えるのは、豊饒な枝葉はすつかり散り、地上では枯葉が風に舞ふだけの、寒々とした冬ざれの景色です。
 
 ちなみに、黒田夏子氏は75歳です。
(※1月16日、受賞決定)
 例年この季節になると、日記帳に「今年のわが十大ニュース」をまとめる。ことし身辺に発生した事柄を十項目ほど時系列に並べ回顧するだけのことだが、のちのち役立つことがある。
 
 あそこへ旅行したのは何年前だつたか、この庭木を植ゑたのはいつだつたか、と迷つたとき、だいたいの見当をつけて前後数年分の日記帳を取り出し、最終ページの「わが十大ニュース」をめくればいい。
 
 ことしは平凡な一年で特記するやうな事件もなかつたので、はたして十項目も列挙できるかしらと不安になりつつ日記帳をひらく。愕然とした。最後に書いたのは四カ月前だつた。
 
 この一年で何日記入しただらうと一月から数へてみると、なんと十九日分しかない。月に平均二日も書いてゐない。数年前から記帳が減つたのは気になつてゐたがこれほどとは思はなかつた。
 
 日記をつけ始めたのは中学生のころだから、もう六十冊近くになる。こんなに記帳が少ないのはもちろん初めてだ。
 
 なぜ日記を書くことが少なくなつたのか。
 
 ものを書く時間が減つたわけではない。現役で働いてゐるころより机に向かふ時間は何倍かにふえた。日記を書かうと思へば書く時間はいくらでもある。
 
 第一に考へられるのは、日々の生活の中で、「これはぜひ日記に記しておかう」と触発されるやうな感動が激減したことだらう。
 
 若いころのやうに、日々、心を揺るがされる事象に直面しない。直面してゐるのかもしれないが、それに感応し、感激する神経がこちら側になくなつてゐる。さびしいことだが事実といふしかない。
 
 次に考へられるのは、机に向かふ時間が長くなつて、現役のころより物を書くことが多くなり、その分、「日記を書きたい」といふ情熱が薄れたことが挙げられる。
 
 仕事で新聞記事を書いてゐたころは、文章を書くには書いたが、それは「自分の文章」ではない。給料をもらふために書くだけだから、心の底では、一日に一つくらゐ「自分の文章」を書きたくなり、夜、日記を手にした。仕事の文章は現代仮名遣ひで、日記は歴史的仮名遣ひで、と書き分けた。
 
 リタイア後は何を書いても「自分の文章」である。新聞、雑誌への雑文も、講演の草稿も、ブログの記事も、もちろん小説もエッセーも。現代仮名遣ひの文章も書くが、そこに働くのは「これは自分の文章」といふ自覚と自負であり、書いたあとの充足感もそれなりにある。そして日記が縁遠くなつた。
 
 しかし、中学生のころから習慣としてきた、夜、日記帳に相対してその日を反芻する時間は、やはり人間として欠かしてはいけないものではないか、と年の瀬に反省してゐる。