あひ見ての のちの心にくらぶれば
昔はものを 思はざりけり
(あなたを知るまへは、こんなに思ひ悩むこともなかつたのになあ)
権中納言敦忠はかう詠みましたが、ぼくのいまの心境は
リタイアの のちの心にくらぶれば
昔はものを 思ひ過ぎたり
といふところです。
最近、夢にみるのは大半が現役のころの仕事の場面です。
同僚先輩との関係、記者クラブでの他社の人間とのつきあひ、取材対象との微妙な駆け引き……会社の慰安旅行や、出張先でのできごとなどがしばしば登場します。
夢には愉楽の思ひ出よりも、悩んだり失敗した思ひ出がひんぱんに出てくるのですが、そのほうがより強烈で、こころに刻まれてゐるからであることは言ふまでもないでせう。
その頃にくらべると、リタイアしてからは周囲に気遣ひをすることが激減しました。日々他人と顔を突き合はせることが激減したのですから当然といへば当然なのですが、他人との摩擦をあまり意識しなくなつたといふ一面もあります。
簡単にいへば、鈍感になつたといふことです。さらにいへば、そして実はこれが重要な点だと思ふのですが、自分から「鈍感であるやう」努めるやうになつたのです。
鈍感であることのほうが楽だからです。もつと正直に言ふならば、「鈍感を装ふ」ほうが楽だからです。
聞こえてゐることでも聞こえないふりをする。まともに見てしまつたことでも、見えなかつたことにする。かうしてあげるのが人間関係を築くうへでは大切だと分かつてゐても、気づかなかつたふりをする。露骨で嫌味なお世辞を言はれたら真に受ける。
今にして思ふと、現役のころこの術を身につけてゐたら、どんなにか毎日がうきうきとして、浮薄にせよ晴朗な日々を送れてゐたに違ひありません。「努力して鈍感であること」は、一つの生きる知恵ではないでせうか。
こんなことを昔の仲間に言へば、「あんたはあのころから十分鈍感だつたよ」と言はれるかもしれないので、口には出しませんが。
