いつもどほり、午前9時半にベッドから出る。春うらら、快晴の土曜日。

 

「けふあたり、裏の公園が満開みたいだから、お花見にでも行きますか」

 

こちらの気持ちを読んだやうに、家人から誘ひがかかる。

 

午後1時過ぎ、パスタ(ボンゴレ)の昼食を済ませると、三時に夫婦で家を出る。

 

ことし雑事に紛れ忘れた恒例の“初詣”に近所の旧官幣大社へまづ参拝し、その裏手に広がる、明治時代から文人などに愛された桜と松林の公園に向かふ。

 

その日そこには、これまで見たこともない光景が広がつてゐた。

 

まるで地域のお祭りかと思ふほど夥しい数の花見客が、園中央の、小学校の校庭みたいな楕円形の広場を埋めてゐる。

 

それぞれ整然と1坪ほどのブルーシートの境界を守り、4,5人づつが車座になつて、べつたりと地面に尻をおろす日本特有のお花見風景である。

 

それにしても、これだけの数の家族やグループがここに集まるとは!

 

広場を一回りすると、「この後はどうせあそこへ寄るのでしよ」と家人が笑ふ。

 

あそことは、ほとんど毎夕通ふ自称「4時5時男」のワインバーのことだが、けふはなぜか気が変はってそこへは行かず、帰宅した。

 

家に着くや、昨夜抜栓したボルドーの安物ワインに、娘がプレゼントしてくれた小さなチーズケーキ、近ごろ凝つてゐるキビナゴ(ニシンの稚魚)の揚げ物を両手に抱へて庭に出る。

 

つと空を見上げると、松の枝葉のはるか上の鮮烈な青空に、白いマシュマロを手でちぎつて置いたかのやうな雲がいくつも浮いてゐる。

 

庭の西にある枝垂れ桜は早くも散り始め、小虫のやうな白い花弁が飛んで来てワイングラスをおびやかす。

 

そのとき、見知らぬ二人連れの中年女性が門のところへやつて来た。

 

ぼくが近寄つて行くと、何やらモノクロの印刷物を差し出して、

 「私たちは高市政権に反対してゐます。あなたはどんなお考へですか」

と切り出す。

 

いかにも藪から棒の質問で答へやうがない。

 

この辺りで最近よく見かける新興宗教団体のおばさんたちだが、少しは春の午後を楽しんでゐるこちらの身にもなつて欲しい。

 

先に東京高裁で判決の出た旧統一教会の解散命令に宗教仲間として反対してゐるらしいが、さあ、これから庭で一杯といふこちらにすれば傍迷惑といふしかない。

 

政権談議なら逆に問ひ返してみたいことが山ほどあるが、面倒だから適当にあしらふ。

 

5時を過ぎてリビングへ退きあげ、こんどはウイスキーのロックで口を漱(すす)ぎ、7時になると、テレビのNHKニュースを見ながら、きのうから家人に所望してゐた天麩羅の夕食で、これには「白鶴・大吟醸」の常温を合はせる。

 

9時、書斎に上がり、18年目になるわがエッセー塾の女性ヴェテラン塾生がメールに添付してくれた、ほとんど添削する必要のないエッセーを読み、返信する。

 

午前1時23分、つまり「123」にベッドに入る。

 

「123」は日によつて多少前後する一応の目安。

 

ややあつて「234」2時34分。

 

枕に頭を沈めて入眠態勢を整へる。時にはすでにうつらうつら状態に入ることもある。

 

あすの起床も9時半の予定だ。

「悪いけど、これやつといてくれる?」

と人に頼みごとをするのは、昔からあまり得意でない。

 

どうしても頼まなければない場合はともかく、できればどうにかかうにか自分でやるか、さもなくば断念する

 

これは、もしかしたら母親譲りだ。

 

警察官の妻として、官舎仲間や近所に対して、子供心にも奇矯と思ふほど気遣ひする母親だつた。

 

老後、脳卒中で半身不随になり、78歳で亡くなるまで、家の中も一人では歩けなかつたが、周囲に人がゐなくなつてぼくと二人きりになると、よくかうこぼした。

 

「何が辛いつて、人に頼んで何かをやつてもらふくらゐ辛いことはない。元気な時のやうに、何もかも自分でやれたら、さぞ楽だらうに」

 

若いころから胆石の激痛に七転八倒、近くの掛かりつけ医に往診を頼むなど、四十一歳でぼくを産んだあと病弱の身となつた母親は、自分の郷里から女中(今でいふ「お手伝ひさん」)を見つけて来て、ほとんど家族同然に遇する中で、家事、育児などすべてをその女性に委ねてゐた。

 

しかし、半身不随になつてからは、必要最小限の用事以外は彼女に何かを頼むのを躊躇(ためら)ひ、なるべく我慢するやうになつた。

 

「でも、生きるためにはどうしても人に助けてもらはなければならないことがあつてね」

 

たとへば、一家の食事の世話や、トイレへ連れて行つてもらふ、風呂に入れてもらふなど、生来、気の弱い母親はいつも遠慮しながら彼女に頼んでゐた。

 

「そこにある物を取るのでも、人に頼むのではなくて、元気だつたころのやうに自分で全部やれたら、どんなにか楽だらうと思ふ」

 

と、ぼくの前で涙をこぼすこともあつた。

 

その血を継ぐ息子は、幸ひ80歳を越しても時折腰痛に悩むくらゐで普通に生活できてゐるけれど、この先、いつ母のやうに「生きるために」他人に助けてもらはなければならない事態が訪れるか分からない。

 

「頼みごとをするのは得意でない」なんて粋がつてゐないで、もつと謙虚に、そして素直に、人に何かを頼めるやうにならないといけないのだらうが、これは性分だからさう簡単ではない。

 

ならば、人に頼まないと生きられないやうな状況にならないことを祈るしかないのだが、この「祈り」はつまり「神頼み」。神でも人間でも「何かを頼む」ことに変はりはない。

 

せめて神様には心置きなく何でも頼めるやうに、少し性格を改めておく必要があるのかもしれない。  

 

まぎれもなく彼はインテリな新聞記者だつた。

 

新聞社に41年間務めたぼくの真率な印象をいへば、新聞記者には案外インテリは少ない。

 

彼は東京外語大を出て読売新聞社に入社、1990年代、湾岸戦争下のヨーロッパ、中東などの特派員として躍動、いくつも特ダネ記事を書いた。

 

「このニュースのコア(核心)は何か」――それを見抜く感性はもちろん、記事の切り口、端正な文体とも天性のものといふほかなかつた。

 

彼が本社勤務になつたとき、政治部の同僚の紹介で六本木で知り合ひ、以後しばしば酒場を共にしては文化人類学的な話や、世界観、「生きるとは何か」など語り合つた。わが家の花見の宴にも来てもらつた。

 

50歳になつて、ぼくが政治部から週刊読売編集長に異動したとき、「国際記者として世界を飛び回るのもいいけど、その体験を踏まえて、こんどは日本のウラ社会を抉(えぐ)る週刊誌ジャーナリズムにそのセンスを生かしてみないか」

と誘ひをかけた。

 

バーのカウンターでだつたが、ぼくは本気だつた。

 

事件、芸能など軟派に弱い新人編集長には、気心の知れた相談相手が欲しかつたこともあるが、彼の俊傑なニュース感覚と才気を、「何でも書ける週刊誌」の舞台で発揮させたら面白いと思つた。

 

彼にとつて、これは親しい先輩の、傍迷惑で“ご無体な誘ひ”だつたにちがひない。

 

世界を飛び回る国際記者を一介の週刊誌記者に引きずり込まうといふのだから、とんでもない話である。

 

ぼくにすれば、これからの記者人生を彼と共に歩み、やがて編集長の後任を彼に託したい思ひもあつた。

 

だが彼は一週間たつても返事をくれなかつた。

 

ぼくが苛立つて、「もう部長権限で人事申立書を人事局長に出してしまつた」と説得しても、彼はまだ逡巡してゐた。

 

しかし、十日ほどして結局、彼はぼくの懇請を受け入れてくれた。

 

彼はときに昼間から酒臭いことがあるほどの酒好きで、週刊誌では二人で人形町や浅草橋で毎晩のやうに痛飲した。

 

彼はスコッチウイスキーのストレート、ぼくはワインと決まつてゐた。

 

60歳を過ぎて、ぼくは編集長から子会社の読売カルチャーセンターに異動、彼も読売系列テレビ局の東京駐在・広告担当役員に出向となつた.。

 

ある日の午後、ぼくはふと彼と飲みたくなつて銀座4丁目にある彼のオフィスを訪ねた。

 

デパートの並びにあるビルの入口を入ると、電話もしてゐなかつたのに、なんと偶然、彼がこちらに向かつて歩いて来る。

 

午後4時過ぎである。

 

「おう、久しぶり。まだ仕事?」

 

ぼくが言ふと、「いや、もう帰らうと思つて……」と語尾を濁した。

 

「さうか、久しぶりに一杯やらうかと思つて来たんだが」

 

彼ははにかむやうに微笑んだものの、いつもの顔と違ふ。

 

「実は最近、一杯やるより、早く帰つてやりたいごとがあつて」

 

「へえ、きみに酒より好きなことがあるとは意外だねえ。やりたいことつて何?」

 

そのあと、彼がポツンとつぶやいた答へに、ぼくは愕然とした。

 

「草むしりです」

 

東京駐在は一人、日々仕事は早めに切り上げて、明るいうちに自宅に帰り、近くのキリスト教会へ行つて、暗くなるまで教会の庭の草むしりをするのが「今の生き甲斐」なのだと言ふ。

 

「教会で草むしりをしてゐると、何もかも忘れて、幸せな気分になれるんです」

 

ぼくの知らない、彼の心深くに横たはる暗部をちらと覗いた気がした。

 

彼はその後まもなく体を壊し、入院してゐた病院の外階段から落ちて死んだ。