朝、新聞をとりに郵便受けまで行つたぼくが暫く戻らないと、朝食の準備を終へた家人がリビングのカーテンをちよつと開けてこちらをのぞく。

 

80翁が起きがけに外に出て、脳卒中でも起こしたのではないかと案じたのか。

 

実はこの時間、ぼくは「朝の労働」をしてゐる。

 

庭に君臨する五葉松の葉叢に降り落ちたゴミを、チクチクする松葉の間に指を差し入れて一つ一つ除去する。

 

ゴミといふのは、この時季、五葉松の隣りで咲きをはつた枝垂れ桜からばらまかれる、一、二ミリくらゐの赤紫色の花萼(がく)だ。

 

微少なものだから、はふつてをいてもいづれ風に吹き飛ばされるかと思ふと、意外にさうではない。

 

この小虫のやうな花咢が萎れて、五葉松の、それぞれ新芽を出さうと意気込む芯の中央に数個たまると、やがて腐葉土のやうな黒い塊(かたまり)になる。

 

それがこれから噴き出さうとする新芽の邪魔をする。

 

この五葉松は亡き父が可愛がつてゐたもので、元は園芸品の盆栽だつたのだらうが、育ち過ぎに手を焼いた父が盆から外して地植ゑした。

 

すると五葉松は出自を忘れ、関東平野の肥沃な庭地の恵みを存分に受けて見る見る成長、今では大蛇がとぐろを巻いたみたいな、恥づかしいほどグロテスクな根元といひ、風をはらんだ凧みたいな枝葉の張りといひ、もはや誰一人掣肘する者のない環境で不羈奔放、いつの間にやら幅も高さも二メートルほどの庭木に成長した。

 

そんな五葉松が、毎朝のぼくのゴミ取りを感謝してくれてゐるかどうかはわからないものの、朝この小作業をやると、父から受け継いだ義理が果たせたやうで清々しい気分になる。

 

これ以外にも、父から受け継いだ庭木はいつぱいある。門懸りの黒松の巨木、新緑と朱色の実が美しい黐(もち)、数年前に枯死したものの、ぼくが幼いころ木登りを楽しませてもらつた木斛(もつこく)、病弱だつた母が廊下の籐椅子から初夏の新緑と実を愛でた柘榴(ざくろ)など、すべて父からの遺産だ。

 

ぼくが庭を管理するやうになつてからのものは、四十年ほど前に福島・三春から苗木を取り寄せた枝垂れ桜だけである。

 

楽しい遺産だけではない。

 

どれもこれもほとんど樹齢100年超だから、たとへば黒松は、上部の枝葉の中に電線や電話ケーブルを包み込んで伸び続けてゐて、いづれ伐らないとトラブルになるだらう。

 

庭師に見積りを頼んだら、高木伐採の特殊技術が要るので一本処理するのに20万円ほどかかるといふ。

 

かうなるとまさしく「負の遺産」だが、これらの庭木は、ぼくの代になつてからでも半世紀以上楽しませてもらつてゐるのだから、甘受すべき対価なのかもしれない。

 

 

いつもどほり、午前9時半にベッドから出る。春うらら、快晴の土曜日。

 

「けふあたり、裏の公園が満開みたいだから、お花見にでも行きますか」

 

こちらの気持ちを読んだやうに、家人から誘ひがかかる。

 

午後1時過ぎ、パスタ(ボンゴレ)の昼食を済ませると、三時に夫婦で家を出る。

 

ことし雑事に紛れ忘れた恒例の“初詣”に近所の旧官幣大社へまづ参拝し、その裏手に広がる、明治時代から文人などに愛された桜と松林の公園に向かふ。

 

その日そこには、これまで見たこともない光景が広がつてゐた。

 

まるで地域のお祭りかと思ふほど夥しい数の花見客が、園中央の、小学校の校庭みたいな楕円形の広場を埋めてゐる。

 

それぞれ整然と1坪ほどのブルーシートの境界を守り、4,5人づつが車座になつて、べつたりと地面に尻をおろす日本特有のお花見風景である。

 

それにしても、これだけの数の家族やグループがここに集まるとは!

 

広場を一回りすると、「この後はどうせあそこへ寄るのでしよ」と家人が笑ふ。

 

あそことは、ほとんど毎夕通ふ自称「4時5時男」のワインバーのことだが、けふはなぜか気が変はってそこへは行かず、帰宅した。

 

家に着くや、昨夜抜栓したボルドーの安物ワインに、娘がプレゼントしてくれた小さなチーズケーキ、近ごろ凝つてゐるキビナゴ(ニシンの稚魚)の揚げ物を両手に抱へて庭に出る。

 

つと空を見上げると、松の枝葉のはるか上の鮮烈な青空に、白いマシュマロを手でちぎつて置いたかのやうな雲がいくつも浮いてゐる。

 

庭の西にある枝垂れ桜は早くも散り始め、小虫のやうな白い花弁が飛んで来てワイングラスをおびやかす。

 

そのとき、見知らぬ二人連れの中年女性が門のところへやつて来た。

 

ぼくが近寄つて行くと、何やらモノクロの印刷物を差し出して、

 「私たちは高市政権に反対してゐます。あなたはどんなお考へですか」

と切り出す。

 

いかにも藪から棒の質問で答へやうがない。

 

この辺りで最近よく見かける新興宗教団体のおばさんたちだが、少しは春の午後を楽しんでゐるこちらの身にもなつて欲しい。

 

先に東京高裁で判決の出た旧統一教会の解散命令に宗教仲間として反対してゐるらしいが、さあ、これから庭で一杯といふこちらにすれば傍迷惑といふしかない。

 

政権談議なら逆に問ひ返してみたいことが山ほどあるが、面倒だから適当にあしらふ。

 

5時を過ぎてリビングへ退きあげ、こんどはウイスキーのロックで口を漱(すす)ぎ、7時になると、テレビのNHKニュースを見ながら、きのうから家人に所望してゐた天麩羅の夕食で、これには「白鶴・大吟醸」の常温を合はせる。

 

9時、書斎に上がり、18年目になるわがエッセー塾の女性ヴェテラン塾生がメールに添付してくれた、ほとんど添削する必要のないエッセーを読み、返信する。

 

午前1時23分、つまり「123」にベッドに入る。

 

「123」は日によつて多少前後する一応の目安。

 

ややあつて「234」2時34分。

 

枕に頭を沈めて入眠態勢を整へる。時にはすでにうつらうつら状態に入ることもある。

 

あすの起床も9時半の予定だ。

「悪いけど、これやつといてくれる?」

と人に頼みごとをするのは、昔からあまり得意でない。

 

どうしても頼まなければない場合はともかく、できればどうにかかうにか自分でやるか、さもなくば断念する

 

これは、もしかしたら母親譲りだ。

 

警察官の妻として、官舎仲間や近所に対して、子供心にも奇矯と思ふほど気遣ひする母親だつた。

 

老後、脳卒中で半身不随になり、78歳で亡くなるまで、家の中も一人では歩けなかつたが、周囲に人がゐなくなつてぼくと二人きりになると、よくかうこぼした。

 

「何が辛いつて、人に頼んで何かをやつてもらふくらゐ辛いことはない。元気な時のやうに、何もかも自分でやれたら、さぞ楽だらうに」

 

若いころから胆石の激痛に七転八倒、近くの掛かりつけ医に往診を頼むなど、四十一歳でぼくを産んだあと病弱の身となつた母親は、自分の郷里から女中(今でいふ「お手伝ひさん」)を見つけて来て、ほとんど家族同然に遇する中で、家事、育児などすべてをその女性に委ねてゐた。

 

しかし、半身不随になつてからは、必要最小限の用事以外は彼女に何かを頼むのを躊躇(ためら)ひ、なるべく我慢するやうになつた。

 

「でも、生きるためにはどうしても人に助けてもらはなければならないことがあつてね」

 

たとへば、一家の食事の世話や、トイレへ連れて行つてもらふ、風呂に入れてもらふなど、生来、気の弱い母親はいつも遠慮しながら彼女に頼んでゐた。

 

「そこにある物を取るのでも、人に頼むのではなくて、元気だつたころのやうに自分で全部やれたら、どんなにか楽だらうと思ふ」

 

と、ぼくの前で涙をこぼすこともあつた。

 

その血を継ぐ息子は、幸ひ80歳を越しても時折腰痛に悩むくらゐで普通に生活できてゐるけれど、この先、いつ母のやうに「生きるために」他人に助けてもらはなければならない事態が訪れるか分からない。

 

「頼みごとをするのは得意でない」なんて粋がつてゐないで、もつと謙虚に、そして素直に、人に何かを頼めるやうにならないといけないのだらうが、これは性分だからさう簡単ではない。

 

ならば、人に頼まないと生きられないやうな状況にならないことを祈るしかないのだが、この「祈り」はつまり「神頼み」。神でも人間でも「何かを頼む」ことに変はりはない。

 

せめて神様には心置きなく何でも頼めるやうに、少し性格を改めておく必要があるのかもしれない。