アジア頂点でフランス五輪へ参戦! | 台湾で起業して頑張る中高年オジサンの徒然

台湾で起業して頑張る中高年オジサンの徒然

天安門事件(1989年)には北京に駐在、その後、広州、北京、シンガポール、台北、上海と中華圏を30年間渡り歩き、2019年9月無事にサラリーマン定年退職。これを機に台湾台北で起業、第二の人生を奮闘中。中華圏ベテランオジサンの目線で見た日々について綴ります。

私は小学校4年生まで、ピッチャーでクリーンアップを打っていた正に二刀流の野球少年でしたが、相手チームの親御さんからの心無い野次で野球を断念しました。


そして、1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した影響もありサッカー少年に華麗に転身しました。それから四半世紀が経った1993年、私は広東省広州市に駐在中でした。


中国酒店に隣接しているマンションの自室でサッカー日本代表が1994年アメリカW杯のカタールドーハでのアジア最終予選VSイラク戦をかじりついてTV応援していました。


試合終了間際のロスタイム数秒の相手コーナーキックでゲームは2-1で終了する筈で、日本の初めてのW杯への扉も開きかけていました。

 

時間がないのでゴール近くへ長いボールを蹴るのが鉄則ですが、イラクは何を思ったのかショートコーナーから繋ぎました。次の瞬間、ボールがふわっと円を描きながら日本ゴールに吸い込まれていきました。W杯への扉が閉じられた瞬間でした。

 

まるでコマ送り画像を見ているような感じでした。ピッチ上の選手も茫然と見送ってしまったような様子でした。私はと言えばTV前にへたり込んでしまいました。


あと数秒あるかないかでしたが、日本選手はだれ一人立ち上がられずにゲーム再開しようとさえしませんでした。そしてそのまま終了…これが今でも語り継がれる“ドーハの悲劇”の瞬間でした。

 

あれから30年、同じ地カタールドーハでフランス五輪のアジア予選をU23日本代表が勝ち抜き見事にアジア頂点に立ち、五輪出場に花を添えました。試合終了間際の相手PKも奇跡のセービングで見事でした。


ドーハの悲劇は歓喜のドーハとなりました。五輪本番ではメキシコ五輪以来の56年振りのメダル獲得(出来れば一番綺麗なメダル🎖️)を目指して欲しいです。



 

それにしても、イラン・オーストラリア・韓国・UAE・カタールなど強豪国が次々と敗退、日本以外にウズベキスタン・イラクの3か国+インドネシア(次の大陸間予選次第)が代表となりアジアのサッカー勢力図もだいぶ変わりましたね。

 

取り合えず、頑張れニッポン!