紫式部の本名は不明らしい⁉️ | 台湾で起業して頑張る中高年オジサンの徒然

台湾で起業して頑張る中高年オジサンの徒然

天安門事件(1989年)には北京に駐在、その後、広州、北京、シンガポール、台北、上海と中華圏を30年間渡り歩き、2019年9月無事にサラリーマン定年退職。これを機に台湾台北で起業、第二の人生を奮闘中。中華圏ベテランオジサンの目線で見た日々について綴ります。

私の故母親は昭和7年(1932年)生まれで名前は美智子と言います。戦前は長野県諏訪市で育ちました。上に二人の姉、下に二人の妹(私の叔母)がいて、いずれも名前は○○子と言います。母親の誕生前後4-5年ぐらいの間に5人姉妹が誕生したわけです。

 

さて…

 

何時の時代から女性名に〇子と付けるようになったのでしょうか?


春秋戦国時代の中国では孔子や孟子など高名な儒学思想家に付ける名前でした。日本では飛鳥時代の聖徳太子や彼に任命されて隋に渡った遣隋使小野妹子が有名ですがいずれも男性名です。

 

検索すると、平安時代の第52代嵯峨天皇の命名が最初だと言われています。子は干支の子(ねずみ)を表しており、子沢山を祈願してとも伝わります。それ以来、天皇家や高貴な貴族の家柄の女子名として使用されるようになりました。

 

其れを象徴する様に、現在放送中の大河ドラマでも頭が混乱するくらい大勢の〇子が出てきます。


枕草子の作者清少納言(せい・しょうなごん)の本名は清原諾子(なぎこ)、藤原兼家の娘で一条天皇の母は藤原詮子(せんし)、藤原道隆の娘で一条天皇に嫁いだ皇后藤原定子(ていし)、藤原道長の嫡妻は源倫子(りんし)、更に妾妻は源明子(めいし)…

 

ちなみに、飛鳥時代大化の改新の立役者で中大兄皇子(後の天智天皇)と共に有名な藤原鎌足(中臣鎌足)は、平安時代の藤原家礎を築きましたが、幼名中臣鎌子(かまこ?)と言います。現代ならば、イジメに遭いそうな名前でした。

 

ところで、肝心の主役紫式部ですが、是は実名ではなく女房名(通称)です。平安時代の貴族階級の女性は当時の慣習で実名を公にしない場合が多いそうです。ドラマ上では“まひろ”と呼ばれていますが、実は本名は不明です。


父藤原為時は和歌・漢詩・漢籍に博学ながらも上流貴族出ではないので、その娘である紫式部は藤原〇子ではないかもしれませんが、これが判明されれば大発見です。


そう言えば先日日本赤十字社職員となられた内親王愛子様も天皇家のしきたりに乗っ取っての命名だったわけですね。故母親は皇太后美智子様とは同年代で同名ですが、やんごとなき公家でもましてや家柄が高貴なわけではなく単なる偶然なだけです(笑)。

 

(少し前藤原道兼役の玉置玲央が清少納言役の方と朝の情報番組に出演、意外にもロン毛だったには驚いた。)