菅原道真と藤原道長の関係 | 台湾で起業して頑張る中高年オジサンの徒然

台湾で起業して頑張る中高年オジサンの徒然

天安門事件(1989年)には北京に駐在、その後、広州、北京、シンガポール、台北、上海と中華圏を30年間渡り歩き、2019年9月無事にサラリーマン定年退職。これを機に台湾台北で起業、第二の人生を奮闘中。中華圏ベテランオジサンの目線で見た日々について綴ります。

「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」


平安時代の天皇家を中心にした律令制度の中で右大臣まで上り詰めた菅原道真が左遷先の太宰府で詠んだ代表的な和歌です。私は2年前に道真と縁の深い太宰府跡と太宰府天満宮を訪れたことがあります。


(太宰府正殿・政庁跡、現在建屋の基石のみ残存)




道真は藤原氏と源氏が官職を独占する世において菅原姓で出世した稀代の貴族と言えます。官職8省で式部省大学寮に学び、その後はとんとん拍子に異例の出世を遂げて太政大臣、左大臣に次ぐ官職No.3の地位を得ます。


ところが、宇多天皇と醍醐天皇に仕えながらも自分の娘を天皇家皇子に入内させ、醍醐天皇に譲位を迫ることを画策したと左大臣藤原時平及び道真の立身出世に嫉妬した貴族の讒言で太宰府に左遷されて僅か2年、失意のまま人生が終わります(西暦903年)。

それが冒頭の和歌に繋がります。東風(こち)とは官職を謳歌した京都から今では天皇家にも忘れ去られた遠い太宰府に居る自身の身分を思い吹く風を意味しているのです。

太宰府とは当時の大陸や朝鮮半島との行政機関ですが、道真は太宰権帥と言う名目役職で棒給もなく衣食住にも事欠く蟄居生活だった様です。したがい元右大臣から単なる地方役人への降格人事以上の厳しいものでした。

ちなみに、遣唐使派遣の廃止を提言したのは官職時代の道真自身でした。唐王朝の内乱で滅亡(907年)も近いことを予言していましたので、太宰府の存在意義も低くなっていたのです。

(道真死後、建立された太宰府天満宮)


さて道真の左遷と一族追い落としを企てた左大臣藤原時平ですが、実は系譜を追ってみると現在放映中の大河ドラマ「光る君へ」準主役の藤原道長の曾祖父方の兄に当たります。


天皇家と外戚関係になる摂関政治の御世を極めた藤原道長でしたが、一条天皇(道長の姉の子)は道長発案により道真の復権のために名目上の太政大臣の称号を与えました。道真死後90年の後のことです。そして天満天神として学問信仰の対象で更に世に崇められることになります。


道長の父親右大臣藤原兼家もドラマ中では相当に出世意欲丸出しですが、平安時代は名前とは裏腹に随分と権謀術数を図った公族(公卿)や皇族同士の闇夜でありながらも、摂関政治を極めた歴史でした。武士の時代とはまた違った側面が見えて面白い時代だと最近感じています。