2017年11月26日(日)、福島第一原子力発電所の立地自治体である福島県大熊町を訪ねた。
案内頂いたAさんは、東日本大震災当時は大熊町に居を構え、東京電力福島第一原発に勤務していた。僕が最初にお会いしたのは、震災翌年の2012年。以来何度か話をうかがってきた方だ。
大熊町は、その大半が「帰還困難区域」(2011年度末の放射線の年間積算線量が50ミリシーベルトを超え、原則立ち入りが禁止されている地域)に指定されている。今回、国の原子力災害対策本部が策定した「帰還困難区域への一時立入り実施基準」に則って、同区域に住居を有するAさんに手続きをお願いし、同行頂き、Aさんの自宅並びに実家の様子を視察した。
立入許可を受けるために事前にAさん経由で申告したのは、氏名、年齢、車のメーカー・種類・色・ナンバー、緊急時連絡先である。
当日は、大川原のスクリーニング場で、「住民一時立入車両通行証」、無線機、線量計、そして希望した防護服を受け取った。
(「職員の顔は写さないでください」と言われたスクリーニング場。帰りに通った毛萱・波倉は撮影禁止だった)
(線量計では、立入時間中の累積線量を計測し、立入終了時に届け出なければならない)
(有人の町内バリケードで通行証を見せる)
現在の大熊町を復興への取組み状況で分別すると、大きく3地域に分けられるという。
まず、大川原地区をはじめとする「帰還困難区域」外の地域と、先行して除染が始まっている新興住宅地、下野上地区。
Aさんの自宅はここにある。長く家主不在の家は傷みが目立った。
(カレンダーは2011年3月のまま)
(同行したアーティストの野口靖さんがAさんのインタビューを実施)
(2011年3月12日朝、「原発が危ない」との報に接したAさんは、この軽トラックで福島第一原発に戻った)
(庭からは牛の放牧が見られた。牧場主は通いで牛の世話を続けているという)
(住宅地の中にあるのは除染土壌の仮置き場。中間貯蔵施設の稼働が進めばこういった光景はなくなる)
そして、今後除染を進めるとする町の中心部大野駅周辺地区。
(大野駅)
(かつてのオフサイトセンター)
(大熊町役場)
因みに、下野上地区と大野駅周辺地区は、改正福島復興再生特別措置法に基づき、町が「特定復興再生拠点区域」に指定している。これらの地域では、概ね5年以内に避難指示を解除して居住を可能とすることが目指される。
最も先行き不透明なのが、JR常磐線以東、県道251号線以南の海側の地域だ。
Aさんの実家はここにある。旧家の玄関に続く私道にはイノシシの足跡が残り、部屋は獣の住処と化していた。
Aさんたちは既に茨城県に新居を構えており、大熊町の自宅と実家は除染の一環として取り壊すつもりだそうだ。
冒頭に書いた通り、大熊町は福島第一原発の立地自治体である。震災後に何度か浜通り訪れているが、こんなに近くで同原発を見たのは初めてだった。
(現在の東京電力福島第一原子力発電所)
大熊町では、除染で取り除いた土壌や放射性物質に汚染された廃棄物を、最終処分をするまでの間、安全に管理・保管するための施設である「中間貯蔵施設」の設置を受け入れ、一部稼働が始まっている。原子力のゴミ問題は、福島原発事故に特有のものではなく、すべての原発が抱える課題である。
(広大な中間貯蔵処理施設。用地取得も稼働もまだ道半ばだ)
大熊町に立ち入って、改めて感じたこと。
時が止まっているわけではない。しかし、何か大事なものが置き去りになっている。そして、そこに生活の臭いが戻る姿を残念ながら想像できなかった。僕自身がどのように関わっていけるのか、ということも…。
(今回立ち入った地域で最も空間線量が高かったのは、福島第一原発周辺で5~6μ㏜/h。下野上地区で0.4~0.5μ㏜/h、町の南東部で0.8~1.0μ㏜/hであった)
(2017年11月27日)