子供の頃は何にも知らないから、聞きまくる。
そして答えを聞いて安心する。学ぶのは楽しい。
学生になるともっと答えがわかりやすくなる。
そりゃそうだ、最初に答えを決めてから問題を作るのだから。
気がついたときには、全てのものに答えがあると信じてしまう。
社会に出ると、答えが複数であることに気づく。
言ってることがみんな違う。
なんと、答えを選べるのだ。
どれが真実なのかを、深く考えて決める人はごくわずかだ。
誰もが、自分にとって都合のいい人の答えを選択する。
そして、いつしか誰も答えられない問題に直面する。
たとえば「与那国島海底遺跡」
300mも続く、直角に削られた石の跡が沖縄にある。
門や階段、はては「亀の岩」と呼ばれる、
左右対称の形に削られたモニュメントまである。
正式な名称は「与那国島海底地形」である。
なぜなら「遺跡説」より「自然地形説」のほうが有力だからだ。
縄文時代にあってはならないものだから、これは自然に出来たものでないと困る、ということだろう。
最初に地球があって、そのあと人間が生まれて、
そのあと「歴史」や「科学」が出来たはずなのに、
順序が逆になっている。
目で見て感じたものより、学校で学んで、
左脳にインプットされたもののほうを信じる。
科学信仰ほど愚かなものはない。
たとえば、物理学で「無」とは何か。
箱の中から全ての物質を取り除く。
空気はおろか光もダークマターもない、完全な真空状態。
完全な「無」のはずである。
ところが、実際には、そこに「粒子」と「反粒子」のペアが、
絶えず生じては、消えていることがわかっている。
科学の説明では、場には「揺らぎ」が存在してるからだそうだ。
よくわからない、というのが本音だろう。
要は、三次元の世界の「無」は完全な無ではなく、
動いているということ。
なぜそんなことが起こるのか。
本当の答えを見つけた科学者は、まだひとりもいない。
これが科学の最先端であるはずの、
現代量子物理学の限界なのである。