故ルー・タイスの高弟であるコーチ和也さんが面白い話題を提供してくれました。
参照
《 その「コーチング」は「情報」を正しく理解できているか? Part2》
参照先から引用
すごそうだなっていう情報については疑ってみる必要がある。
なんとなくすごそうな情報には騙されてしまう。」
引用終了
「こんな話」についてどの様な解釈が成立するかが、面白い話題です。
問題となる論点は、「世の中の情報に敏感になる」とはなにを意味するかということです。
解釈1
現時点における世間の一般的解釈と思われます。
人間の経験的認識とは無関係に「世の中」というものが実在している。自分ではどうにもならない絶対的・先験的(アプリオリ)な実体として、リアルな外界(物理的現実世界)というものがある。
その物理的現実世界(世の中)の営みを記述(表現)したものとして「情報」がある。
「情報」は記述であるから不正確なこともあり、さらに作為も入り得るので騙されることもある。しかし記述の元であるリアルな物理的現実世界を捉えれば、騙されることはないであろう。
「世の中の情報に敏感となる」とは物理的現実をリアルに捉えることである。
以上が解釈1ですが、話はこれで終わりません。この解釈の前提から帰結されることが大問題となります。
「自分ではどうにもならない先験的(アプリオリ)な物理的現実世界」の実在が、この解釈の前提です。これから帰結されることとして、先験的な物理的現実世界の一部として、同じく先験的な価値基準が存在することになってしまいます。
分かり易く言うと、「世の中の価値基準」というものが「自分ではどうにもならない先験的(アプリオリ)なリアル」として存在するので、黙って受け入れる以外の選択肢はないことになります。現代の具体的な例では、土地は広ければ広いほうがいい、ビルは高ければ高いほうがいい、金は多ければ多い方がいい、といった資本主義の価値観を「アプリオリなリアル」として受け入れることを意味します。
外界(他者)からの価値観を「アプリオリなリアル」として無条件に受け入れることは、思考を放棄した奴隷になることです。受け入れる価値観は資本主義に限りません。伝統的価値観や宗教的価値観でも、無条件に受け入れることで、その「アプリオリなリアル」の奴隷となります。
本来のコーチングとは、この手の奴隷を啓蒙・覚醒させ救済・解放するべきものです。
今日世間では、資本主義の価値観の枠内で「優秀な奴隷」になることを推奨するような代物が蔓延しています。この様な淫祠邪教の類を「偽コーチング」と呼びます。
解釈2
認知科学による内部表現の概念が理解できたうえでの解釈です。
脳内情報状態のみが、その人にとって、認識可能な宇宙の全てである。認識していないものは、存在していないことと同じこと。
「世の中の情報」というのも、その人が認識し脳内に記述したありさま(内部表現)が、全てでありそれ以外は存在しない。「すごそうな情報に騙される」というのは、内部表現として脳内に記述するプロセス(認知のプロセス)の瑕疵である。
騙されないように「世の中の情報に敏感になる」とは、自らの脳内情報処理(認知活動)に目を向けることである。
人間の認知活動は、自由意思ではなく、いつの間にか身についた認識(思考)パターンに従っています。その認識パターンの正体は、無意識に蓄積された情報です。蓄積された情報(記憶)による認知の偏りをコンディショニングと呼びます。コンディショニングのない人はいません。
全く同じ記憶を持つ人は一人としていないので、コンディショニングは一人一人異なります。同じ情報を知覚しても、認識し脳内に記述されるありさま(内部表現)は一人一人異なるのです。
従って、共通認識空間として絶対的・先験的(アプリオリ)な物理的現実世界は、そもそも存在しないのです。
全ての情報は外部から来ます。自分由来の情報はありません。
ということは、認識(思考)パターンは外部からやって来たことになります。
認知活動に目を向けるとは、無意識に蓄積されていく外部由来の情報を、よくよく吟味することを意味します。
ついでに加えると、自分に都合の良い情報のみを選別して、あるいは都合よく改竄して蓄積すればいいことになります。もとよりリアルな現実など誰にも知り様がないからです。
これは「アプリオリなリアル」を黙って受け入れる解釈1の帰結と、全く正反対の帰結となります。
解釈3
解釈2から百尺竿頭に一歩を進んだ解釈となります。
世間一般からは完全に逆転しているものの見方です。一度理解できれば、非常にエレガントな世界観であることがわかります。
内部表現以外は誰にも知り様が無い。知り様のない外部世界を含まない、世界理解のモデルであればスッキリする。それは情報が情報を生み、生まれた情報がさらに情報を生む、情報のダイナミズムで世界を理解するモデルである。
「なんとなくすごそうな情報」も先験的(アプリオリ)にあるのでなく、様々な情報処理の結果生まれたものである。「なんとなくすごそうな情報」に騙されるのも、多数の情報が連鎖する情報処理(認知活動)である。騙された結果は情報としてはなたれ、さらに無数の情報処理を生む。
このモデルにあって「世の中」とは、情報処理の連鎖が無限に連なる「合わせ鏡」のような世界。
「世の中の情報に敏感になる」とは、「合わせ鏡」の世界で可能な限り広い視野を持つこと、換言すると高い視点(抽象度)から俯瞰することである。
相対論以降、時間と空間は同じもの、どちらも四次元時空間の座標となりました。座標としての1年後や10年後は既にあります。つまり未来は既にあるのです。ただし、そこで何が起きるかは未確定です。未確定ということは、可能性世界の無数の分枝として存在しているということです。
未来に近づくにつれ徐々に選択確定されることで、可能性の分枝が減っていきます。そして一つの世界が目の前に現れ、一瞬で過去に流されていきます。
目の前の世界は、可能性世界も無数の分枝の中から、無数の情報処理のダイナミックな相互作用の結果として選ばれたものです。それだけ膨大な情報量を含みます。
膨大な情報量の中から、ほんの一部を他者と共有することで、共通認識空間として絶対的・先験的(アプリオリ)な物理的現実世界が存在するような錯覚が生じるのです。
物理宇宙の始まりとされるビックバンは、波動方程式により存在が認知されたものです。
ビックバンを証明する方程式を記述する学者Aの脳内情報処理と、それを読んで理解する学者B
の脳内情報処理があって、学者Aと学者Bの共通認識空間にビックバンが出現することになります。されに教科書に記載されるなどして、一般大衆が読んで受け入れる情報処理があると情報が共有され、多くの人の公約数的な共通認識空間にビックバンが出現するのです。認知活動と無関係に先験的(アプリオリ)にビクバンがある訳ではありません。
人間の認知活動は今この瞬間になされます。
138億年前のビックバンを考えるのは今この瞬間の脳内情報処理。遥か未来の宇宙の行く末を想像するのも今この瞬間の脳内情報処理です。物理的現実世界をリアルと感じるのも今この瞬間の脳内情報処理です。
受け入れなければならない絶対的・先験的(アプリオリ)な物理的現実世界の居場所はどこにも無いようです。