オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est] -2ページ目

オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

故ルー・タイスの魂を受け継ぐ魔法使いの一人として、セルフコーチングの真髄を密かに伝授します

故ルー・タイスの高弟であるコーチ和也さんが面白い話題を提供してくれました。

参照

《 その「コーチング」は「情報」を正しく理解できているか? Part2》


参照先から引用

先日も、こんな話が出ていました。
「世の中の情報に敏感でなければならない。

すごそうだなっていう情報については疑ってみる必要がある。

なんとなくすごそうな情報には騙されてしまう。」

引用終了


「こんな話」についてどの様な解釈が成立するかが、面白い話題です。

問題となる論点は、「世の中の情報に敏感になる」とはなにを意味するかということです。


解釈1

現時点における世間の一般的解釈と思われます。


人間の経験的認識とは無関係に「世の中」というものが実在している。自分ではどうにもならない絶対的・先験的(アプリオリ)な実体として、リアルな外界(物理的現実世界)というものがある。

その物理的現実世界(世の中)の営みを記述(表現)したものとして「情報」がある。

「情報」は記述であるから不正確なこともあり、さらに作為も入り得るので騙されることもある。しかし記述の元であるリアルな物理的現実世界を捉えれば、騙されることはないであろう。

「世の中の情報に敏感となる」とは物理的現実をリアルに捉えることである。


以上が解釈1ですが、話はこれで終わりません。この解釈の前提から帰結されることが大問題となります。

「自分ではどうにもならない先験的(アプリオリ)な物理的現実世界」の実在が、この解釈の前提です。これから帰結されることとして、先験的な物理的現実世界の一部として、同じく先験的な価値基準が存在することになってしまいます。

分かり易く言うと、「世の中の価値基準」というものが「自分ではどうにもならない先験的(アプリオリ)なリアル」として存在するので、黙って受け入れる以外の選択肢はないことになります。現代の具体的な例では、土地は広ければ広いほうがいい、ビルは高ければ高いほうがいい、金は多ければ多い方がいい、といった資本主義の価値観を「アプリオリなリアル」として受け入れることを意味します。


外界(他者)からの価値観を「アプリオリなリアル」として無条件に受け入れることは、思考を放棄した奴隷になることです。受け入れる価値観は資本主義に限りません。伝統的価値観や宗教的価値観でも、無条件に受け入れることで、その「アプリオリなリアル」の奴隷となります。

本来のコーチングとは、この手の奴隷を啓蒙・覚醒させ救済・解放するべきものです。

今日世間では、資本主義の価値観の枠内で「優秀な奴隷」になることを推奨するような代物が蔓延しています。この様な淫祠邪教の類を「偽コーチング」と呼びます。


解釈2

認知科学による内部表現の概念が理解できたうえでの解釈です。


脳内情報状態のみが、その人にとって、認識可能な宇宙の全てである。認識していないものは、存在していないことと同じこと。

「世の中の情報」というのも、その人が認識し脳内に記述したありさま(内部表現)が、全てでありそれ以外は存在しない。「すごそうな情報に騙される」というのは、内部表現として脳内に記述するプロセス(認知のプロセス)の瑕疵である。

騙されないように「世の中の情報に敏感になる」とは、自らの脳内情報処理(認知活動)に目を向けることである。


人間の認知活動は、自由意思ではなく、いつの間にか身についた認識(思考)パターンに従っています。その認識パターンの正体は、無意識に蓄積された情報です。蓄積された情報(記憶)による認知の偏りをコンディショニングと呼びます。コンディショニングのない人はいません。

全く同じ記憶を持つ人は一人としていないので、コンディショニングは一人一人異なります。同じ情報を知覚しても、認識し脳内に記述されるありさま(内部表現)は一人一人異なるのです。

従って、共通認識空間として絶対的・先験的(アプリオリ)な物理的現実世界は、そもそも存在しないのです。


全ての情報は外部から来ます。自分由来の情報はありません。

ということは、認識(思考)パターンは外部からやって来たことになります。

認知活動に目を向けるとは、無意識に蓄積されていく外部由来の情報を、よくよく吟味することを意味します。

ついでに加えると、自分に都合の良い情報のみを選別して、あるいは都合よく改竄して蓄積すればいいことになります。もとよりリアルな現実など誰にも知り様がないからです。

これは「アプリオリなリアル」を黙って受け入れる解釈1の帰結と、全く正反対の帰結となります。


解釈3

解釈2から百尺竿頭に一歩を進んだ解釈となります。

世間一般からは完全に逆転しているものの見方です。一度理解できれば、非常にエレガントな世界観であることがわかります。


内部表現以外は誰にも知り様が無い。知り様のない外部世界を含まない、世界理解のモデルであればスッキリする。それは情報が情報を生み、生まれた情報がさらに情報を生む、情報のダイナミズムで世界を理解するモデルである。

「なんとなくすごそうな情報」も先験的(アプリオリ)にあるのでなく、様々な情報処理の結果生まれたものである。「なんとなくすごそうな情報」に騙されるのも、多数の情報が連鎖する情報処理(認知活動)である。騙された結果は情報としてはなたれ、さらに無数の情報処理を生む。

このモデルにあって「世の中」とは、情報処理の連鎖が無限に連なる「合わせ鏡」のような世界。

「世の中の情報に敏感になる」とは、「合わせ鏡」の世界で可能な限り広い視野を持つこと、換言すると高い視点(抽象度)から俯瞰することである。


相対論以降、時間と空間は同じもの、どちらも四次元時空間の座標となりました。座標としての1年後や10年後は既にあります。つまり未来は既にあるのです。ただし、そこで何が起きるかは未確定です。未確定ということは、可能性世界の無数の分枝として存在しているということです。

未来に近づくにつれ徐々に選択確定されることで、可能性の分枝が減っていきます。そして一つの世界が目の前に現れ、一瞬で過去に流されていきます。

目の前の世界は、可能性世界も無数の分枝の中から、無数の情報処理のダイナミックな相互作用の結果として選ばれたものです。それだけ膨大な情報量を含みます。

膨大な情報量の中から、ほんの一部を他者と共有することで、共通認識空間として絶対的・先験的(アプリオリ)な物理的現実世界が存在するような錯覚が生じるのです。


物理宇宙の始まりとされるビックバンは、波動方程式により存在が認知されたものです。

ビックバンを証明する方程式を記述する学者Aの脳内情報処理と、それを読んで理解する学者B

の脳内情報処理があって、学者Aと学者Bの共通認識空間にビックバンが出現することになります。されに教科書に記載されるなどして、一般大衆が読んで受け入れる情報処理があると情報が共有され、多くの人の公約数的な共通認識空間にビックバンが出現するのです。認知活動と無関係に先験的(アプリオリ)にビクバンがある訳ではありません。

人間の認知活動は今この瞬間になされます。
138億年前のビックバンを考えるのは今この瞬間の脳内情報処理。遥か未来の宇宙の行く末を想像するのも今この瞬間の脳内情報処理です。物理的現実世界をリアルと感じるのも今この瞬間の脳内情報処理です。

受け入れなければならない絶対的・先験的(アプリオリ)な物理的現実世界の居場所はどこにも無いようです。


ずいぶん昔のことですが、実際に目撃した話です。
某有名病院の救命救急センターの入り口で、歩いてやって来たオッサンと病院職員が言い争っていました。
オッサンいわく、「心臓が止まっているから治療しろ!」
対して病院職員の返答、「精神病院へ行ってください!」


心臓は無意識に機能します。であるから、何かに熱中している時や眠っている間に、心臓を動かすことを忘れるバカはいない訳です。
そして御本人がどんなに「心臓が止まっている」と頑固に主張しても、心臓君は健気にも無意識のうちに働いてくれます。全身に血液を送ってくれるので、歩くことも主張することも言い争うことも可能なのです。


認知科学以前と認知科学以降では、リアリティーの定義が異なります。
認知科学以前では、脳の外側に実在すると勝手に思い込んでいた世界がリアリティー(現実世界)の定義です。しかし、人間には脳内情報状態(内部表現)以外の世界は知り様が無いので、現実世界があったとしても誰にも知り様がないことになります。
認知科学以降では、臨場感のある脳内仮想世界がリアリティーの定義です。臨場感があるとは、仮想世界の変化に反応して、整合的な体感の変化が伴うことを意味します。仮想世界とホメオスターシスフィードバック関係を持つと換言できます。そして人間は、複数の仮想世界とホメオスターシスフィードバック関係を持つことができます。ホメオスターシス同士のバランス状態を、心理学ではゲシュタルトと表現します。
仮想世界をブリーフを言い換えると、コーチング用語としてのブリーフ・システムのことになります。


上記のオッサンの「心臓が止まっている」は、認知科学以降のリアリティーに該当します。しかし同時に「生命維持」をゴールとする仮想世界へのホメオスターシスも維持されているので、心臓君は無意識に働いてくれているのです。「心臓が止まっている」と言い争うことが可能なほどに心臓が働くことが、オッサンのゲシュタルトです。


仮想世界の臨場感が強くなると、本当に心臓が止まってしまうこともあります。それがゲシュタルトです。
現代でも悪霊と戦って死んでしまう僧侶がいるそうです。悪霊のいる仮想世界とホメオスターシスが強くなり過ぎると、整合性のあるゲシュタルトを維持するために、心臓が止まることが要請されてしまうのです。


その点からすると、上記オッサンの「心臓が止まっている」臨場感は、さほど強くないといえます。よく考えると、「『心臓が止まっている』仮想世界」でなく、「『心臓が止まっている』と言葉で主張する仮想世界」に強い臨場感を持っていると言えます。少なくともゲシュタルトのレベルではそうであるから、整合的に心臓君が無意識に働いてくれるのです。


ここが、この記事のポイントです。オッサンの「心臓が止まっている」を「ゴールの世界」に置き換えると(セルフ)コーチングへの教訓となります。


「ゴールの世界に臨場感を持っている」と言葉で主張することは論外です。「ゴールの世界」とは現状の外側なので臨場感は持てません。臨場感を持てたら現状の枠内でありゴールではありません。極めて初歩的な語義の問題です。


「ゴールの世界」には具体的な臨場感を持つことは不可能でも、一段抽象化された中間ゲシュタルトなら可能です。「ゴール達成を前提として動き出している仮想世界」ないしその表裏として「ゴールへ動き出している自己イメージ」なら臨場感を持てます。世界(宇宙)と自己イメージ(自我)は表裏一体です。どちらも脳内仮想世界の情報状態(内部表現モデル)であり、視点の方向が違うだけです。
動き出している仮想世界でも自己イメージでも、どちらでも臨場感が徹底的に高まれば、リアリティーとして目の前に結実します。ゴールへの中間ゲシュタルトがリアリティーとなれば、後は勝手に進展します。


ここで問題となるのが、「『ゴールへ動き出している』仮想世界」への臨場感か、「『ゴールへ動き出している』と言葉で主張する仮想世界」への臨場感かということです。
「言葉で主張する仮想世界」に臨場感を持つと、上記オッサンの例の通り「主張できるように」無意識が整合的に機能してくれるでしょう。ただし、「主張できる」だけで、主張通り「ゴールへ動き出している」か否かは全く不明です。
心臓が動いているか止まっているかは、言葉で主張することではなく、脈拍や血圧や心電図などで観察し評価することです。
同様に、どの様な仮想世界に臨場感を持っているかも、言葉で主張することではなく、観察し評価することなのです。


パーソナルコーチングの枠組みでは、臨場感を持っている仮想世界を観察・評価するのは、コーチの役割です。クライアント御本人が言葉で主張される内容は、とりあえず無視して、非言語で観察します。
観察なくしては、どう書き換えるべきか不明であるからです。「自称・心停止」に対して、心臓の治療が成立しないことと同じです。
セルフコーチングの枠組みでは、これをセルフで、つまり自分独りでやることになります。そのためセルフコーチングプログラムでは観察・評価のための視点が用意されています。


複数の仮想世界への臨場感(ホメオスターシス)のバランス状態(ゲシュタルト)の結果として、記号的に表現される空間をコンフォートゾーンと呼びます。
心臓の無意識の働きの結果が、脈拍や血圧といった記号的表現で観察・評価できるのと同様の概念です。無意識の機能の結果としてリラックスできコンフォートなる、環境や状況(収入、人脈、業務内容など)の記号的表現で、ゲシュタルトを観察・評価するものです。
この場合のコンフォートとは、自称・コンフォートではなく、筋緊張や発汗など具体的な身体レベルの観察を通じてのコンフォートです。


ゲシュタルトと表裏の関係にある自己イメージの評価軸として、エフィカシー(ゴール達成能力の自己評価)という概念があります。こちらは「ゴール達成」の観点から判断・行動を観察・評価し、それを通じて判断・行動に至る無意識の機能を、さらに無意識の機能を生むに至る仮想世界を観察・評価しようというものです。
オッサンの例で言えば、具体的に歩けるし言い争いもできる、だから心臓は動いているだろうということになります。具体的な個別の判断・行動の事例が観察・評価の対象です。


ところがセルフコーチングの難所の一つですが、観察・評価の視点が機能しないことが少なくないようです。
コンフォートゾーンやエフカシーの視点から観察・評価するのではなく、コンフォートゾーンやエフィカシーについて「言葉で主張」したがる人が少なくないのです。
「『ここがコンフォートゾーンである』と言葉で主張する仮想世界」や「『エフィカシーが高い」と言葉で主張する仮想世界」に臨場感を持つ人が少なくないということです。
一般化して言うと、「無意識の機能を言語化し自称しようとする」傾向があるのです。つまり「自称・心停止」のオッサンと大同小異の有様です。


この傾向はどこから来るのでしょうか。
二元論的な古い心理概念の束縛下にあることが、根本的な原因と思われます。
意識、魂、心などと呼称される「心的(思惟)実体が、自由に判断・行動している」という仮想世界に臨場感を持っているのです。積年の社会的洗脳の結果といえます。
自覚されない無意識の機能でなく、心的実体の実在を前提としているため、言語化し自称しようとするのでしょう。機能評価の視点ではなく、実体としての「自称・コンフォートゾーン」や「自称・エフィカシー」という訳です。
心的実体を前提とする仮想世界を、否定ないし無視することで、行動主義以降の心理学が発展しました。天動説から地動説を経てビックバン宇宙論に至るようにです。
その発展の成果として、認知科学以降の新しいパラダイムで作られたセルフコーチングプログラムがあります。ビックバン宇宙論のようなプログラムを、天動説の如き古いパラダイムで理解しようとしたら、支離滅裂な産物が出現するのです。

現代科学による20世紀末のパラダイムシフトの一つとして、「人間に自由意志はほぼない」ことが「発見」発見されました。認知科学や機能脳科学などの圧倒的な知性に裏打ちされた、人工知能研究を通じて得られた成果です。
参照

「人間に自由意志はほぼない」と理解することが自由への第一歩


「人間に自由意思はほぼない」のです。
ですから、「自由にゴール(こうなりたい)を設定した積もり」になっていても、実は自由な選択ではなくブリーフ・システムによってなされた選択です。ブリーフ・システムの正体は過去の記憶ですから、記憶に縛られた選択であるのです。
そして記憶とは必ず自分以外の外部由来の情報であるので、外部に縛られた選択でもあります。つまり、ゴール設定(こうなりたい)は自由どころか、他者からの刷り込みにより選らばされている可能性が大なのです。
参照

「ゴールが認識を作る」プリンシプル


では、いきなり自由な選択はほぼ無理としても、刷り込みではない主体的なゴール設定は可能でしょうか。
それは可能です。


人間は知識(外部由来の情報)がないものは、そもそも認識不可能です。一方、知識を得たがために視点が固定され、逆に盲点(スコトマ)となることもあります。そこで、得た知識を抽象化することで、視点(抽象度)が上がり認識空間が広がります。
例えば、黒板の知識がないと、黒板は黒い壁か板にしか見えません。黒板の固定観念に縛られると、ホワイトボードは意味不明の代物です。黒板の知識を抽象化して視点(抽象度)を上げれば、電子黒板ですら何であるか理解できます。


同様に、記憶(刷り込まれた外部情報)がなければ、「こうなりたい」と望むことすらありません。一方、刷り込まれたままの「こうなりたい」に縛られては、刷り込みの元の奴隷です。そこで、「こうなりたい」を抽象化することで、刷り込み元を超える視点(抽象度)が得られれば、刷り込みを踏み台とした主体的な選択となり得るのです。
それは言語の習得にも似ています。自分で言葉を発明したのではないので、言語は必ず外部からの刷り込みです。しかし刷り込みを抽象化することで、無意識レベルで文法を会得すれば、情報記述の道具として活用できます。刷り込みを踏み台とした主体的な活用となります。


抽象化された「こうなりたい」とは、例えば「宇宙サイズのスケールでの夢」です。
宇宙サイズとは、ビックバン宇宙論における観測可能な宇宙(直径約930億光年)の時空間全体に広がる夢です。そのスケールの時空間は恐らく誰も支配していないでしょうから、洗脳や誘導を仕掛けられることはありません。刷り込み元を超える視点(抽象度)が得られ、刷り込みを踏み台とし、刷り込み元を超える視点(抽象度)を得ての主体的な選択となります。
観測可能な宇宙全体では臨場感が得られないのなら、空間的には銀河系サイズで時間軸は2億年(太陽系が銀河を1周する時間)でもありです。誰も支配していないであろう巨大な時空スケールのゴールなら、刷り込み元の奴隷となることはありません。
それでも無理なら、最低でも地球サイズで100年単位です。それ以下では他者からの洗脳や誘導の仕掛けが入り込み、主体的な選択とは言い難くなります。


「宇宙サイズの夢」とは「夢(こうなりたい)の舞台」の抽象化です。他方、「夢(こうなりたい)の内容」の抽象化もあります。それは「純粋にやりたいこと」をやることであり、やった先にあることが「抽象化された夢」となります。


「純粋にやりたいこと」とは、一切の見返りを求めずに、単にやりたいからやることです。やること自体に価値を認め、誰の何の役に立つのかは一切不明、邪魔されてでもやりたい、白い目で見られてもやりたいことです。
その「やりたいこと」も当初は、「やって楽しかった体験」の記憶に基づき、「やりたいこと」とブリーフ・システムにより判断されたことです。つまり元々は偶然の産物であり、外部からの刷り込みです。しかしその刷り込みを高度に抽象化して、論理抽象度を超える無意識レベルでの判断基準にまでなると、「純粋にやりたいこと」になります。
「純粋にやりたいこと」をやった先にあること、その結果がどうなるかは、誰にも予測できません。想像すらできないほど高度に「抽象化された夢」なのです。
誰にも予測できない夢であれば、誰からも支配されずに、仕掛けが入り込む余地が全く無い夢です。ということは、選ばされた「こうなりたい」ではなく、主体的な選択となります。
実際、人類史的な画期的な発明や発見は「純粋にやりたいこと」の結果なのです。
参照

人類の未来に貢献したければ・・・メタに思考して「純粋にやりたいこと」をやる

「お客様は神様です」は奴隷の論理により意味が改ざんされた


ここで厳しい現実に直面します。「宇宙サイズの夢」も「純粋にやりたいこと」の両者とも盲点(スコトマ)に隠れて分からなくたっている人が、圧倒的多数なのです。
困ったことに、分からないことすら分からない、あるいは分かったと錯覚している人もいます。
酷いのになると、本当は全く望んでいないのに、御利益を期待して「スケールの大きいゴールを持っている振り」を演じる奴すらいます。
参照

ゴールの抽象度は高いほうがいいのですが、落とし穴には落ちないように・・・


やはり刷り込みではない主体的なゴール設定は不可能なのでしょうか。
いいえ、人類の英知の結集として特別な方法論が発明されています。
それが「暫定仮ゴール方式」です。


刷り込みにより「こうなりたい」と思わされているものでも、唯一絶対の「こうなりたい」ではなく、暫定仮の「こうなりたい」と見なせば、刷り込み元の奴隷にはなりません。刷り込みと承知のうえで暫定仮として敢えて選択すれば、他者の仕掛けに踊らされることにはならないからです。暫定仮の視点とは、「こうなりたい」を一段高い視点(抽象度)から吟味するものです。刷り込みを踏み台として、視点(抽象度)を上げることが目的です。
何のために視点(抽象度)を上げるのか。
暫定仮ゴール達成のためスコトマ(盲点)を外して、暫定仮ゴールへ向かって加速するためと勘違いしては本末転倒です。それは隷従への道を驀進することを意味します。
視点(抽象度)を上げる目的は、盲点(スコトマ)に隠れている「宇宙サイズの夢」か「純粋にやりたいこと」を見つけるためです。


「現状の外側のゴール設定」とのプリンシプルも、本質的に同じ目的です。現状の外側のゴールとは、ブリーフ・システムの変更を要求する目標との意味です。ブリーフ・システムの変更といっても変更は極一部であり、人格が別人格に豹変する程までは要求されません。それでも評価関数が変われば、従来はスコトマ(盲点)であった「本当の夢」が見えてくるであろうことに期待しての、変更の要求です。現状の外側のゴールも暫定仮ゴールなのです。
暫定仮ゴールは達成すべきでないとの意味ではありません。しかし暫定仮であることを忘れると、本来の目的を忘れてしまいます。すると刷り込まれたゴールに殉じる様に生きる奴隷となってしまうのです。
参照

ゴールのために生きるのではなく、より良く生きるために「ゴール設定」がある


では「宇宙サイズの夢」か「純粋にやりたいこと」が見つかれば、自由意志を獲得したことになるのでしょうか。
それは違います。
「宇宙サイズの夢」や「純粋にやりたいこと」は、夢の舞台や内容が他者に仕掛けられたものではないという意味で主体的なゴールではあります。しかしその「主体的なゴール」もブリーフ・システムの産物であり、記憶の束縛下にあります。いわば内部表現のシステム内での相対的な自由です。
「宇宙サイズの夢」や「純粋にやりたいこと」を踏み台にしてさらに抽象度(視点)を上げて、内部表現のシステムを越えたところに、記憶の束縛を解かれた真の自由意志があります。それこそが目指すべき最終ゴールです。



苫米地英人著、「努力はいらない!『夢』実現脳の作り方」、「最終章 本当の夢とは何か」より引用
ただ、本当の夢はそう簡単に見つかりません。自我の束縛から解き放たれて、真の自由意志を獲得しなければ、到達できないからです。そのための思考法についても紹介してきましたが、このように考えれば、ただちに本当の夢が見つかる、というわけではありません。思考するだけではなくて、やはり実践や行動というプロセスを経ながら、手探りしていかなければなりません。
だから、夢の最終形には、あまりこだわらなくていい。5年後とか10年後とか、自分が臨場感をもってイメージできる範囲内で、いちばん実現したいことを、暫定的なゴールにすればいいのです。
抽象思考によって、時空をも超えたスケールの夢を描くことと、具体的に自らの内部表現を書き換えていく作業とは、ステージが異なります。本当の夢と呼ぶことのできるゴールを発見できずに、スタート地点で足踏みしてしまうようなら、とりあえず走り出してみたほうがいいわけです。ただし、そのルート上に「奴隷の幸せ」という落とし穴が仕掛けられている可能性も大きいですから、そこにハマって抜け出せなくならないように気をつけましょう、という指摘もしてきました。
実際のところ、本当の夢を見つけることのほうが、暫定的なゴールを達成することよりも、はるかに困難で、時間がかかるかもしれません。それに比べたら「5年後に社長になって年収1億円」なんて、みなさんが思うより、はるかに簡単だといってもいいくらいです。本書で紹介した方法を実践して、ゴールへと至る自己イメージをしっかりともちことができたなら、間違いなく実現します。
ここで大事なのは、「ただし、それは暫定的なゴールにすぎない」と知っておくことです。知っておけば、達成したときに、その成功に溺れることも無いし、走っているうちに、どんどん新しい夢が生まれてきます。その中から、最終的に「これだ!」というものが見つかってくるはずです。
引用終了

前々回の記事で「時間とは何か」について書きました。要約


1 現代物理学で「時間」とは、4次元時空間の座標の一つである。座標としての未来は既に存在しているが、そこで何が起きるかは未確定であり、可能性世界の無数の分枝として存在している。我々が未来座標に移動することで、可能性世界から一つの分枝が選択確定して、過去と呼ばれるようになる。


2 離散的な時間の最小単位(プランク時間)は知覚不可能。1秒間も1億年間も、離散的なプランク時間を集めた部分集合であり、抽象的な便宜上の単位という観点からは同じもの。認知科学以降のリアリティーの定義に従うと、臨場感を持ち得る時間単位がリアリティーのある「今」となる。


3 人間の認識可能な宇宙は現在、過去、未来も全て、「今」この瞬間にリアルタイムに、大枠から詳細に再統合され、瞬間毎に更新される脳内情報状態。大きな時間単位の「今」の枠内で、小さな時間単位での「今」が整合的に決定されていく。
大きな時空単位での可能性世界の分枝の選択が、小さな時空単位での観測・確定に決定的な影響を与える。



3での「リアルタイムの再統合」の概念は、前回記事で書いたファンクショナリズムの「ファンクションが先で存在が後という立場」そのものです。再統合するファンクション(機能・関数)があるから、再統合される宇宙があり、宇宙を構成する存在があるのです。
ファンクションとは「意味を生じさせる、部分と部分、もしくは、部分と全体とのかかわり(関係性)」のことです。


ここで本質的な疑問
宇宙を瞬間毎に生じさせる再統合のファンクションはどこから来るのか


(「Dr苫米地の「脳力」の使い方」から引用)
今までの認知科学では、過去にファンクションが積み重ねられてきて、その積み重なったファンクションが、現在の入力にしたがって、何らかの答えを出すとしてきました。
しかし、それでは説明が成り立たないことが出てきます。脳の現実から言えば、今この瞬間に、ファンクションが生み出されると考えるほうが納得できるのです。
ただし、これは、自分1人だけで成されるものではありません。個々人がバラバラに、刹那的な宇宙を創っても意味はないのです。
つまり、多くの人々が作った宇宙が同時に存在しているということです。
(引用終了)


「今までの認知科学」も旧約聖書以来の「古い時間概念」の洗脳下にあったようですね。
それはともかく、重要なのは「多くの人々が作った宇宙が同時に存在している」ということです。
存在はファンクションの結果ですから、「多くの人々が作った宇宙が同時に存在している」ということは、「多くの人の宇宙を生むファンクションは相互に係わり合っている」ことを意味します。
1人に1つの情報宇宙であっても、部分的に情報を共有しているので、共有部分を通じて相互に宇宙を更新し合っている。この相互更新作用の結果として、瞬間毎にファンクションが更新され生み出される、ということです。相互更新のファンクションが、1人一宇宙を生むファンクションを、リアルタイムに更新させていると言ってもいいでしょう。


ということは、
可能性世界から一つの分枝を選択確定させるのは、自分1人だけの選択ではないということです。多くの人の選択の相互作用の結果として、1つの分枝が選択確定されるのです。
その際に、大きな枠組み(時空単位)での選択(つまり抽象度の高い選択)が、決定的な影響を与えるといことです。抽象度が低いと選択肢が限定されるため、相互作用での影響も限定されるからです。


可能性世界の分枝の選択ですから、過去と全く無関係な世界の選択とはなりません。1人一情報宇宙の中には、記憶として存在している確定した過去情報を含み、その関係性のネットワーク(情報縁起)の上に未確定の未来の可能性分枝があるからです。
過去は全く無関係ではなくても、決定的では決してありません。選択を重ね分枝をたどって行けば、実質的にほぼ無限の可能性が広がるからです。
しかしその選択は、多くの人の情報宇宙からの相互更新のファンクションの影響をダイナミックに受けます。その情報宇宙の一つ一つ全てが、ネットワーク(縁起)として過去情報と可能性未来の分枝を、もちろん含んでいます。


一つの選択は、ありとあらゆる関係性の影響を受けつつも、リアルタイムに更新される情報宇宙のダイナミズムの結果なのです。
関係性を無視した空想世界でもなければ、関係性にがんじがらめに固定された世界のいずれでもありません。


これが何を意味するのか
空想的に創れる自分勝手な未来もなければ、不可能として諦めなければならない未来もない
成功するにしろ失敗するにしろ、確実な未来予測はありえず、結果の保証もない
約束された祝福もなければ、受け容れなければならない運命もない
ということです。


なんだ、常識的な結論だというなかれ
この結論を常識として共有できない人が決して少なくないのです。


「古い心理概念」の洗脳下にある人とは共有不可能です。
古い心理概念とは、「実在する思惟(心的)実体が、目の前の世界をありのままに見て、自由に判断している」積もりになっている代物です。


上述の結論は、脳機能(心理)研究の歴史を経てのものです。古い心理概念を無視して、入力(知覚)と出力(反応)のみで人間を記述しようとした行動主義。入力を出力に変換するファンクション(関数、関係性、内部表現)に注目したファンクショナリズム(認知科学)。そしてファンクションはどこから来るかを含めた「ダイナミックな相互作用」というモデルが出来ての、上述の結論です。


ダイナミックな相互作用のモデルでは、期待通りに事が進まなくても問題とはなりません。可能性未来の選択肢が限定されているように見えるのは、抽象度が低いからであり、抽象度を上げるだけのこと。瞬間毎に期待通りの更新がされないのは、相互作用の影響力が弱いからであり、選択の枠組みを広げて影響力を高めるだけのこと。


古い心理概念の洗脳下ではこうなります。
見えている選択肢のみが絶対であり、選択肢が見えないことは運命として受け入れなければならない。影響力の程度は、生まれ持った使命として与えられており、これも受け入れなければならない。
これに御利益主義の洗脳が加わると、もう一捻り追加されて、
「運命を感謝して受け容れることで、引き寄せの御利益があります」云々の奴隷の論理となります。


これらは2500年前に釈迦が否定した、バラモン教の身分差別と同じ思考の枠組みにあります。バラモン教の身分差別とは、カーストなり運命なりを受け入れる良い子になって修行を積むことで、来世では上級の魂のステージに上がれる云々。要するに現在の権力者が安泰となるような社会洗脳の仕掛けです。


これらの積年の社会的洗脳は、①過去から流れる時間の積み重ねの上に、②アプリオリな実在が先にあってファンクションを担っているとの2点を前提としています。
2つの前提を否定することで、社会的洗脳の論理は破綻し崩れ去ります。洗脳から脱した先に、瞬間毎にダイナミックに更新される宇宙の可能性が広がります。

ルー・タイスが始めた正統コーチングを、認知科学のパラダイムで理解した上でセルフコーチングプログラムとしたものがPX2・TPIEです。
プログラムとして受講し実践する限りでは、認知科学の何たるかを全く知らなくても、十分な成果が得られるように設計されています。


幸か不幸か最近では「TPIEらしきこと」「ルー・タイスコーチングらしきこと」を教える人が増えてきました。
なぜ「らしきこと」なのか。
それらを教える方々は「認知科学」という言葉を当然のように繁用しますが、果たして「認知科学」をどのように理解しているか謎であることが少なくないからです。
であるから、TPIEマスターファシリテーターである井上和也さんも、「バックボーンを理解して語っているのか、聞きかじった知識を言っているだけなのか」の問題を指摘されています。
参照:あなたを助ける【コーチング】が世界を変える Part3


そこでバックボーンとして認知科学の何たるかを、プログラムの設計者の著作から確認しておきましょう。

(「Dr苫米地の「脳力」の使い方」から引用)
認知科学の1番の基本は、存在をすべてファンクションとしてみることです。ファンクションというのは、役割、関数ということです。そして、ファンクショナリズムを信じている人たちを認知科学者といいます。
認知科学とは、部分と部分、もしくは、部分と全体とのかかわりのなかで意味が生まれてくるのです。そのかかわりをファンクションと言ったのです。
中略
そのファンクションのことを「内部表現」と呼ぶのです。これは認知科学者の言い慣わしです。
なぜなら、以前のパラダイムは、人間はブラックボックスだとするように、中身がないことが定義でした。そのパラダイムに対して、認知科学者は人間には中身があるというチャレンジだったのです。換言すれば、内部のファンクションが存在するということです。
中略
しかし、「内部表現」の内部という言葉には、とくに意味があるわけではありません。内部(インターナル)と言う言葉にこだわるのは、80年代に認知科学が生まれたとき、アメリカで過ごしていた現代では60代、70代の年齢になっているような学者です。
いま、宇宙の内部表現を調べているのは、量子力学者の超ひも理論です。それにあたるものを私たち認知科学者は脳の内部表現と呼んでいるだけなのです。
たとえば、物理学者にとっての波動方程式は、私たちにとっての内部表現です。しかも人間の頭の中の波動方程式です。
言いたいのは、式があるから存在があるという立場-。ファンクションが先で存在が後という立場なのです。

(引用終了)


波動方程式による証明があるから、ビックバンや超ひもが理論的な宇宙モデルとして、脳の中に存在し得るのです。脳内理論モデルとしてではなく、ビックバンや超ひもの世界を直接体験した人は誰もいません。ビックバン宇宙論や超ひも理論として共有されているのは、多数の人間の共通の脳内理論モデルとなっているからです。


日常サイズでの体験の同様です。脳は頭蓋骨で隔離されているので、外界を直接経験できません。感覚器から入力される情報を脳内モデルとして再構築する必要があります。直接体験した積もりでも、脳内モデルとして体験しているのです。
この場合の「脳」とは脳の機能(ファンクション)を意味します。ホルマリン漬けの脳標本やモニター上の脳画像の中には、どんなに頑張っても脳内モデルは生まれません。
よってファンクション(認知現象)があるから、脳内モデルとしての世界が存在し、その世界の一部である諸々の存在(人間や物体、概念)があることになります。認知現象(ファンクション)がなければ世界(宇宙)はないのです。


脳内モデルには、観測行為で確定した世界だけでなく、可能性世界の無数の分枝も含まれます。その可能性世界も、可能性を考えるファンクションによって存在し得るのです。可能性を考えない限り、分枝もないのです。別の可能性を考えると、別の脳内モデルに変わります。
ファンクションがあるから存在がある。ファンクションを定義すれば、存在が生み出される。ファンクションが変われば、別の存在に生まれ変わるのです。
ファンクションとは、「部分と部分、もしくは、部分と全体とのかかわりのなかで意味が生まれてくる、そのかかわり」のことなので関係性と換言できます。
関係性が有るから存在がある。関係性を定義すれば、存在が生み出される。関係性が変われば、別の存在に生まれ変わります。
別の存在に生まれ変わっても、記憶の連続性があるため、同じ存在と錯覚するのです。


この認知科学の立場によるものの見方は多くの人にとり、コペルニクス的転換を要求するはずです。現代社会は骨の髄まで資本主義に洗脳されているからです。
資本主義はプロテスタンティズムより発し、さらに源流をたどれば旧約聖書のユダヤ教にまで至ります。そしてユダヤ教・旧約聖書では「存在が先」、神が「在るもの」としてアプリオリに存在する世界です。
ユダヤ教から派生したイスラムを含む西洋社会の伝統的立場は、存在が先でファンクションが後、存在があるから関係性があるとするものです。西洋の先端科学では否定されている立場ですが、なぜか日常感覚では頑強に残存しています。
そして資本主義に洗脳されていると、西洋社会の伝統的立場に閉じ込められ、認知科学(ファンク
ショナリズム)の立場を全く理解できなくなってしまいます。


「存在が先」の世界に閉じ込められると、どうなるのでしょうか


一例を挙げると、コーチングで行う「自我とはなんぞや」の説明を全く逆に解釈することになります。
「自分」を定義しようとすると、必ず自分以外の人(家族や交友関係)、組織(学校や会社)、物体(趣味や嗜好)など、他者を引き合いに出さなければ何一つ説明できない。自我とは他者との関係によって定義されるものである。・・・と、ここまでは誰でも理解できます。問題はその先です。
「ファンクションが先」を前提とすればこうなります。
自我とは他者との関係性によって定義される。だからダイナミックに変わる関係性によって、瞬間毎に生まれ変わっている。よってなりたい自分は関係性を定義することで、いくらでも選択可能である。


「存在が先」を前提とするとこうなります。
自我とは他者との関係性によって定義される。他者は既に存在しているので、関係性は自分勝手には決められず、自分も自分勝手には決められない。
それから自分を受け入れるとか何とかの訳の分からない話になって、現状の枠内での高揚感を自尊心とか何とか称して有難がるだけに堕ちます。
ファンクショナリズムの立場からすれば、ダイナミックに生まれ変わっているものを受け入れるも受け入れないも糞もありません。受け入れた積もりになっているものは、記憶として合成した過去の幻影なのです。


例えば、親友関係にあるAさんとBさんがいたとします。親友関係が崩れるとA、Bという存在でなく、A'、B'という別の存在に生まれ変わります。そこでもう一度親友関係になりたければ、関係性を新たに定義すればいいだけの話です。新たに定義した関係は、元の親友関係でなく新たな親友関係で、A、Bに戻るのでなくA''、B''に生まれ変わるのです。かつてのA、Bは記憶としての幻影です。
親友関係が崩れたことを受け入れるとか何とかやる暇があったら、新たな定義に力を注ぐべきです。宇宙に同じ状況は二度とないのです。


より本質的な問題として「コーチングの意義(ファンクション)」が全く違ってしまいます


ルー・タイスコーチングでファンクション(内部表現)に相当する概念はブリーフ・システムです。ブリーフ・システムがあるから、脳内モデルとしての世界とその一部である諸々が存在します。
多くの人は成り行きで、多分に他人からの刷り込みでブリーフ・システムを形成してきました。幼少時は両親から、成長すると学校教育や社会習慣からの洗脳によります。今、見えている世界(存在含む)は、他人によって作られたファンクション(ブリーフ・システム)によって生み出されてものなのです。


従って、コーチングの目的はブリーフ・システムの意図的な改変にあり、その手段としてゴール設定およびゴール更新があります。別の表現をすれば、ゴールのファンクションが新たなブリーフ・システムを生み、新たなブリーフ・システム(ファンクション)が新たな世界(宇宙)を生むこととなります。
新たな世界とは、現状世界と全く無関係な別世界ではありません。記憶の連続性があるため、古い世界を包摂した新しい別世界です。現状世界を外側から俯瞰できる一段高い視点(抽象度)が、新たなブリーフ・システム(ファンクション)です。
常に視点(抽象度)を上げ続けることがコーチングのファンクションであり、自由意志(認知科学以降の定義による)への路となります。


「存在が先」とすると、世界が先(アプリオリ)に存在し、その結果としてブリーフ・システムがあることになります。すると、ブリーフ・システムが世界を生み出しているのではなく、既にある世界を歪んで見せるフィルターの様な偏見装置であると、ブリーフ・システムを誤解してしまう。
するとブリーフ・システムを改変する理由が、ゴール達成の障害除去となります。つまりコーチングの目的は目標(ゴール)達成で、手段としてのブリーフ・システム改変となります。
これの何が問題なのでしょうか。


その目標は間違いなく他人からの刷り込みであるからです。
自分のwant toで目標設定した積もりでも、他人に作られたブリーフ・システムでの判断であるので、他人の刷り込みとしてのwant toなのです。目標もまたファンクションの産物です。
目標が先(アプリオリ)に存在するとして、その目標に驀進すればするほど、ファンクションを作った他人の奴隷になってしまうのです。目標達成をコーチングのファンクションとすると、隷従への路となってしまいます。


たとえ当初の暫定仮ゴールが他人の刷り込みであっても、ゴール達成過程でブリーフ・システムを意図的に改変することで視点(抽象度)が上がるというのが、TPIEプログラムの妙味です。
視点(抽象度)が上がり現状世界を外側から俯瞰できれば、暫定仮ゴールを生んだファンクションを吟味できます。吟味した上で敢えて同じ目標を選択したのなら、元は他人に刷り込みであったとしても、奴隷ではない自由な選択となります。
その妙味の大前提が、「ファンクションが先で存在が後」とするファンクショナリズムです。「存在が先」とすると視点が現状に固定され、自由な選択はなし得ないのです。