ゴールの抽象度は高いほうがいいのですが、落とし穴には落ちないように・・・ | オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

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故ルー・タイスの魂を受け継ぐ魔法使いの一人として、セルフコーチングの真髄を密かに伝授します

ゴールの抽象度が高いほうが良いことは言うまでもありません。
抽象度の高いゴールを設定することで、より高い視点から情報空間を俯瞰できるようになり、より賢くより大きな力を発揮できるようになります。
ゴールの抽象度の差とは、目指すゴールが、「自分だけが嬉しいゴール」なのか、「周囲の人も嬉しいゴール」か、「日本中が嬉しいゴール」か、「世界中が嬉しいゴール」か、「時空を超えて嬉ばれるゴール」なのかとう論点です。


ただし大きな落とし穴があります。


口先で抽象度の高いゴールを唱えていながら、本当に目指す先は私利私欲であることがあるのです。
「世界中が喜ぶゴールを設定すれば、国際大会で優勝できる」
「社会貢献をゴールにすれば、金が儲かる」
これらは「OOすればXXできる」という思考の枠組みの産物です。ゴール設定という行為の見返りとして、結果の保証を求める考え方で、御利益主義と呼ばれます。


人間の思考には枠組みが必要です。人間の寿命は有限なので、無限の可能性を無限時間かけて思考することが不可能であるからです。
より高い視点から情報空間を俯瞰するとは、思考の枠組みを広げて、より少ない束縛で未知の可能性に挑戦することを意味します。
御利益主義の枠組みに閉じ込められている限り、情報空間を俯瞰することは出来ません。結果の保証とは、過去の枠組みの中でのみ成立することだからです。


「OOすればXXできる」という思考の枠組みは、「OOしなければならない、さもなくば△△となる」との思考に容易に変換されます。両者は本質的に同じ「関数:ファンクション」であるからです。
「社会貢献をゴールにしなければならない、さもなくば競争に負ける」
「世界のためのゴールを設定しなければ、さもなくば優勝できない」


「しなければならない」に堕ちると、どうなるかは御存知の通り。情報空間のホメオスターシスとして、「さもなくば△△となる」が成立する過去(現状)の枠組みを徹底的に維持すべく、無意識の判断・行動がなされます。
無意識の判断・行動とは、自覚も予測も不可能であるがゆえに、無意識なのです。つまり信じられないあっと驚く創造的な方法で「XXとなる」試みを次々と妨害します。創造的回避です。


ということは、御利益主義による口先抽象度の高いゴールより、自分だけでも純粋に嬉しいゴールのほうが、はるかにましであるのです。
純粋に嬉しいゴールとは、見返りのために自分に嘘をつくことなく、「したい」気持ちに責任を持てる選択です。


元祖コーチであるルー・タイスにより「家族や国のために走り勝たなければならない」から「純粋な選択として走りたい」に視点が切り替わった例が知られています。
前者の視点より、後者の視点のほうが情報空間での束縛が少ないので、より高い視点・抽象度の高いゴールに書き換わったと言えます。


後にケニア陸上界の父と呼ばれることになる、キプチョゲ・ケイノという長距離ランナーの話です。彼はメキシコオリンピックを目指しアメリカで練習していましたが、レースの最終400mで経験する胸の激痛に悩み、ルーにコーチングを求めました。


「レースのそのポイントに差しかかったとき、何を考える?」
ルーは尋ねました。
「あと400mも走らなければならないと、考えます」
キプチョゲは「しなければならない」を基準に考えることで、自ら痛みの原因をつくりだしているとルーは考え、こういいました。
「解決策はあるよ。最後の400mを走らなければならないとわかったら、そこで止まる。走るのをやめるんだ。そして、そこで止まって、トラックの内側に座り込むのさ」
「そんなの、馬鹿げています。座り込んだら負けてしまうじゃないですか」
「そうだ。でも、少なくとも君の肺は苦しくなくなる」
「僕が何のために走っていると思っているのですか?」
「まったくわからないな。あの痛みはがまんできないさ」
「僕が走るのはオリンピックで勝てたら、牛がもらえるからです。僕の国では、それでずいぶん金持ちになれるんです。家族は、僕をアメリカの大学に送るために自分たちの生活を犠牲にしてきました。だから、家族のためにも国のためにも、金メダルをとりたいんです」
ルーは言いました。
「じゃあ、黙って走ったらどうなんだ?君は走る必要はない。でも走ることを選んだ。それは君自身の考えだ。本当は無理して走る必要はないし、レースを走りきる必要もない。いつだって止まることができるんだ」
「僕は走って勝ちたいんです」
「じゃあ、それに気持ちを集中しろ。『したい』『選ぶ』『好む』を忘れずに練習しなさい」


ルーの言葉に従ったキョプトゲは1500mで金メダル、5000mで銀メダルをとりました。
(ルー・タイス著「アファメーション」・苫米地英人著「言葉があなたの人生を決める」より引用)


不思議なことですが御利益主義の思考の枠組みでは、家族や国民、人類が嬉しいゴールというと、何故か唯一「自分」だけは例外とみなします。
そして「家族や国民が嬉しいゴールのために、例外である自分が苦痛に耐えて走らなければならない」となるのです。その苦行の見返りとして、結果の保証(この場合は金メダルと牛)が与えられるという発想です。それが大間違いであることを如実に示しています。
家族や国家のためどころか、全能の神や全宇宙のためであったとしても、見返りを求めての「しなければならない」では、創造的回避により頓挫します。


逆に「自分が嬉しいゴール」であっても、見返りを求めない純粋に「したい」ゴールであるなら、胸の痛みはスコトマ(盲点)となり走りきれるのです。見返りを求めないならば、創造的回避は起きずに、行為自体の価値が徹底的に高められるからです。
行為自体の価値が高くなれば、当初は「自分が嬉しいゴール」でも、自分以外の家族や国民・人類・宇宙がついでに嬉しくなる可能性が出てきます。「見返りとして結果の保証」が成立する過去(現状)の枠内では有り得ないことです。
偶然でも副作用でもなんでもいいから、自分以外がついでに嬉しくなって悪い訳がありません。「自分」も家族や国民・人類・宇宙という集合に含まれるのです。決して対立概念ではありません。