旧・日常&読んだ本log

流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

以降の更新は、http://tsuna11.blog70.fc2.com/で。


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ポール・オースター, 柴田 元幸, Paul Auster

トゥルー・ストーリーズ


ポール・オースターのエッセイ集。amazonによると、「対応する原書が存在しない、貴重なポール・オースター・エッセイ集」であり、「日本で出版される本書のために、オースター自らが目次を組んだという」んだそうな。

そもそも、扉の著者紹介を見るたびに、結構な男前の写真と共にいつも気になっていた、「1947年、ニュージャージー州ニューアーク生まれ。コロンビア大学を卒業後、石油タンカー乗組員、山荘管理人などの職を転々としながら翻訳、詩作に携わる」という、何だか脈絡がなくも思われるポール・オースターの来歴などが、オースター自身の言葉で語られるわけです。

目次
赤いノートブック The Red Notebook
なぜ書くか Why Write?
その日暮らし Hand to Mouth
事故報告 Accident Report
スイングしなけりゃ意味がない It Don't Mean a Thing
折々の文章 Occasional Pieces
 「あれを読むと、以前僕の母親の身に起きたことを思い出すよ……」
 "It remainds me of something that once happened to my mother…”
 サルマン・ラシュディのための祈り
 A Prayer for Salman Rushdie
 ゴサム・ハンドブック
 Gotham Handbook
 ペンシルヴェニア州知事への嘆願
 Appeal to the Governor of Pennsylvania
 訳者から
 Translator's Note
 戦争に代わる最良の代替物
 The Best Substitute for War
 段ボール箱考
 Reflections on a Carboad Box
 覚え書き 二〇〇一年九月十一日、午後四時
 Random Notes:Septembeer 11, 2001-4:00pm
 NYC=USA
 地下鉄
 Underground
訳者あとがき


数々の偶然に彩られ、導かれたオースターの人生は、確かに彼の小説に生きている。柴田さんも書いておられたと思うのだけれど、物語を創る上で通常は偶然を排するところ、これが故にオースターは偶然を入れちゃうんでしょうねえ。ほんと、オースターの人生には、小説よりも奇なることがいっぱい。なかなかに強烈な人物であり、そうはいないと思われる、まるで「ティンブクトゥ 」のウィリーみたいな人物だって存在したしね。

さて、その他に印象に残ったのは、ニューヨークという街に対するオースターの愛。

ゴサム・ハンドブック」は、ソフィ・カルという女性のために書いた、ニューヨーク・シティー暮らしの改善法のお話。それは、「笑顔」、「知らない人と話す」、「物乞いやホームレス」、「一点を育む」という章に分かれ、「物乞いやホームレス」では、心を硬化させないことは人としての務めである、どんなに小さく、無力に思えるしぐさであれ、行動が必要であると説く。「一点を育む」では、すぐ目の前にある目につかない物たちを大事にせよ、歩道、壁、公園のベンチ、それらのどこか一点、都市のなかのある一点を選んで、それを自分のものと考えてみること、そこを清潔に保つこと、美しくすること、自分と言う人間の延長物、自分のアイデンティティの一部と考えてみよ、と勧めている。
(実際、ソフィ・カルはこの指示に従って行動し、のちにその結果を『ダブル・ゲーム』〔一九九九、ロンドン、ヴァイオレット・エディションズ〕で報告したとのこと)

また、十四歳になるオースターの娘が、ハイスクールに通い始め、生れてはじめて一人でブルックリンからマンハッタンへの地下鉄に乗ったその日、彼女が世界貿易センターの下を通過して一時間と経たないうちに、ツインタワーは崩れ落ちたのだという。

一人一人が出来ることには限りがあるし、大都市であっても尚、都市というのは人の有機的な繋がりであり、国もまたその延長上にあるんだなぁ、ということを実感するようなエッセイ集でした。偶然というのも、どれだけ何かに繋がっているか、ということにもよるわけだしね。ちょっと芋づるを連想してしまいました。

←もたもたしてる間に文庫化されちゃいましたが、こっちの装丁もいいなぁ。



さて、次はこっちだ!
←そして、気づけばこっちも文庫化…。

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堀江 敏幸
いつか王子駅で

各所で好評の堀江敏幸さん、初読みです。

数ある著作の中で「いつか王子駅で」を選んだのは、荒川の風景が表紙になっていたことと、どうも都電の近辺が舞台になっているようであったから。

私が新卒で入った会社は、荒川に縁がある会社で、それで初めて東京都内に路面電車が残っていることを知りました。本の中に出てくる飛鳥山公園も、研修中にそこで花見をしたんだよなぁ、などと懐かしく思いました。

字も割と大きめで、頁数だってそう多いわけでもない。直ぐに読めてしまうかと思ったら、これがなかなかそうはいかなくって。筋と言う筋があるわけでもない、とても静かなこの小説は、読み手にゆっくりとしたスピードで読むことを求めているように感じたのです。

言うならば、日本の伝統的な私小説風の味わい。勿論、これはあくまでフィクションの巧妙に創られた「私」小説であり、この小説の中の「私」は、堀江さん自身とは微妙に重なり、微妙に違うのでしょうけれど。

主人公は、翻訳や時間給講師をして暮らす「私」であり、これは彼の生活圏内で知り合った人々との交わりの話。背中に昇り龍を持つ正吉さん、小さな居酒屋「かおり」のママ、小さな旋盤工場の社長で、私の家主でもある米倉さん、米倉さんの娘の咲ちゃん、米倉さんの工場で働く林さん、古書店を経営する筧さん…。偉い人は出てこないけれど、皆が皆、しっかりとした「手」や仕事を持つ人だということが出来る(まだ年若い、「咲ちゃん」だけは、陸上部に所属するだけに、彼女が持つのは「手」ではなく、その伸びやかな肢体かな)。

物語の序盤において、「私」が一目置く「正吉さん」は早々に姿を消し、不在のまま物語が進んでいく。「私」は行きがかり上預かってしまった荷物のために、「正吉さん」をひたすら待つ。語られるのは、待つ間の「私」の身近で起こる、小さな出来事、不在であっても尚強い正吉さんの影…。

この小説の中で、最も印象深かったのは以下の部分。

 私に最も欠落しているのは、おそらく心の「のりしろ」だろう。他者のために、仲間のために、そして自分自身のために余白を取っておく気づかいと辛抱強さが私にはない。いま咲ちゃんと、ダイジェストというのかあきらかなリライト版でたどっているトム木挽きあらためトム・ソーヤーの、「待つこと」を知らぬせわしない動きが『あらくれ』のお島が見せたせわしなさと似て非なるものだと感じられるのは、後者の心に細い点線で区切られた「のりしろ」がないせいではないか。そこに糊をきちんと塗らなければ形が整わない、最後には隠れてしまう部分にたいする敬意を彼女が有していなかったせいではないのか。                        (p146より引用)

何かとせわしない世の中だけれど、自分も心の「のりしろ」が足りていないのかも、とふと思いました。最初に静かな小説だと書いたけれど、実際は静かな部分ばかりでもなくて、過去の歴史的な競馬の部分などは、生き生きと爆発的。ラストもいいです。

さて、この小説の中で、島村利正、瀧井孝という作家の小説が多く引用されるのだけれど、私にはきっとこの人たちの小説を読むことは出来ないだろうなぁ。それこそ、静かに待ち、余白に敬意を表する、本読みとしての実力が問われるわけで…。実は堀江さんの文にしても、味わうのにちょっと自分の実力がギリギリかなぁ、とも思うのだけれど、時にこういう文章に触れるのもいい経験だと思いました。とんとんと、焦っていた心がならされて落ち着くのでしょう。

最初に新卒の時の話を少し書いたのですが、あれから○年、実はこの12月からまた「新入社員」となりました。それまでと同じ場所で働いているので、環境がそう変わるわけではないのだけれど、働き方の形態が変わると、やはり少し焦ってしまう部分もあって。気ばかり焦って本も落ち着いて読めなかったりしたのですが、心の「のりしろ」を大事に楽しく働いていきたいなぁ、と思いました。

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

←こちらは文庫。都電が可愛いですね。
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北村 薫

1950年のバックトス


1995年の「小説新潮」10月号から、2007年「ヨムヨム」の3号まで、北村さんの約10年の短編が集められています(なんか、途中から読んだことがあるような気がするのが混じってたのだけれど、でも、掲載誌を読んだ覚えもないし、私の気のせいなのか?)。

倉橋由美子さんの「倉橋由美子の怪奇掌篇 」を思わせる「百物語」や、本の中の登場人物同士が恋をする「万華鏡」など、最初の方は、正直、北村さんでなくとも描ける世界だと思ったんだけど、表題作の「1950年のバックトス」なんかはまさに北村ワールド。

北村さんには、「スキップ」「ターン」「リセット」の 《時と人 三部作》もあるわけで、《時》を描かせたら、やっぱり北村さんは天下一品だと思うのです。や、とかいいつつ、「ターン」は実はあまり好きではなく、「リセット」に至っては読んでもないのですが(「スキップ」は大好き)。

「洒落小町」は、北村さんの駄洒落癖が。笑 主人公は雑誌編集者なのですが、ちょっとそのセンスはどうよ、と思う。笑

「ほたてステーキと鰻」は、たぶん「ひとがた流し」のスピンオフ。一冊の本の形で読んだことはないのだけれど、新聞連載を時々読んでいたので、登場人物やシチュエーションに見覚えがありました。

短編もいいけれども、「円紫さんと私」シリーズの続きはもうないのかなぁ。…と、北村さんの新刊が出るたびに、呟いてしまう私です。笑 きっと、そういう人、他にもいっぱいいると思うのだけれど。

目次
百物語
万華鏡
雁の便り
包丁
真夜中のダッフルコート
昔町
恐怖映画
洒落小町
凱旋


手を冷やす
かるかや
雪が降って来ました
百合子姫・怪奇毒吐き女
ふっくらと
大きなチョコレート
石段・大きな木の下で
アモンチラードの指輪
小正月
1950年のバックトス
林檎の香
ほたてステーキと鰻
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ポール・オースター, 柴田 元幸

ティンブクトゥ


ミスター・ボーンズには分っていた。ウィリーがもう長くはないことを。
楽しかった彼との日々が、終わってしまうことを…。

えーと、こう聞くと、ウィリーが犬で、ミスター・ボーンズが人間、と思えるのだけれど(いや、過去、こういう本 を読んだこともあるしね)、あにはからんや、ここでは、ミスター・ボーンズが犬、ウィリーがその飼い主になるのです。

ウィリーの人生は、客観的に見て、とても成功したものとは言えない。狂気とアル中の詩人であるウィリーは、けれども、ブラウン管から彼に語りかけるサンタクロースから啓示を受け、ウィリアム・グレヴィッチ改めウィリー・G・クリスマスとなり、一年を通してクリスマスの教えを肯定し、何も求めることなく愛を返すことに専念した(もしくは、そう心掛けた)。

その試みは常に成功!というわけにはいかなかったけれど、ウィリーには常に自分が目指すべきものが見えていた。けれども、若さが失われ、浮浪者同様となったウィリーが、いくら博愛精神を示そうとも、世間は冷たいもの。そんなウィリーが、ボディーガード代わりに飼い始めたのが、ミスター・ボーンズだったというわけ。

ウィリーは全てをミスター・ボーンズに話したし、ミスター・ボーンズも犬の身に許される限り、それらを全て理解した。二人で<匂いのシンフォニー>の研究に夢中になったりもした。マシンガンのようなウィリーのトークの合間に語られたのは、「ティンブクトゥ―ティン‐ブク‐トゥ」のこと。それは人が死んだら行く場所であり、砂と熱からなる巨大な王国、永遠の無が広がる地を越えたところにある土地。ミスター・ボーンズには、その旅は困難なものだと思われたけれど、ウィリーはそこにはあっという間に行けるのだ、と請け負う。

けれど、「ティンブクトゥ」とは人が行く場所なのか? だとすれば、ペットである自分は? この世界に別れを告げるときが来れば、その後はそれまでの生で愛した人と共に暮らせるべきではないのか?

最初に恐れていた通り、やはりミスター・ボーンズとウィリーの別れの日がやって来る。ミスター・ボーンズはウィリーからの忠告を元に、ひとり、生きていこうとする。ウィリーほど信用に足る人間はいないけれども、ミスター・ボーンズは、少なくともウィリーと同じくらい信用できる人間を見つけ…。
ここから語られるのは、いやな奴が一人いたからといって、全員が悪い奴だと思うな、という教訓や、信用できる人間でもその人物に力がない場合の悲しさなど。そうして、ミスター・ボーンズを助けるのは、時に夢の姿を借りてやって来るウィリー。

「ミスター・ヴァーティゴ」ほど、読んでいる最中に面白い!、とは思わなかったのだけれど、読み終わった後にじーんと残るものがありました。犬の視点で語られるのだけれど、犬だから、というよりは、純粋な魂のお話として読みました。愛する者との日々の思い出、愛する者を失ってから、別れが来てからをどう過ごすのか。みんながみんな、夢の形を借りて、生者の元にやって来られるわけではないけれど、ウィリーとミスター・ボーンズは、きっとティンブクトゥに行けたよね。

■関連過去記事■
・「最後の物たちの国で 」/全てが失われゆく街で
・「ミスター・ヴァーティゴ 」/空も飛べるはず
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いしい しんじ

ポーの話


町の北から南へと流れる幅広い泥の川、その上流を漁場とするうなぎ女の股から、ある日、ポーは生まれた。一様に太って、どす黒い色をしたうなぎ女たちは、真っ黒い泥の中へ日焼けした両腕をずぼりと差し入れ、手探りでうなぎを捕る。ポーを生んだ女だけではなく、全てのうなぎ女がポーの母親となる。そして、うなぎ女たちは、わが子、ポーの幸せを希う。

 
ポーや。
 スフスフ。
 ポーや、ポー、わたしたちのたいせつな小鳩。

 スフスフ。スフスフ。
 ああ嬉しい。
 かあさんたちの命は、いつだっておまえのしあわせとともにある。

うなぎ女たちの息子ポーは、川と共に成長する。水かきをもち、うなぎ女たちと同様の黒い肌を持ち、誰よりも長く潜水出来るポーは、異質な存在だけれども、彼はいつしか、市内を走る路面電車の運転士、「メリーゴーランド」と「ひまし油」の兄妹と知り合いになる。

ポーがこの兄妹から学んだのは、兄からは盗みとツグナイについて、妹からは図鑑や百科事典からの知識、そして誰かが誰かの「大切なもの」であるということ。

大洪水が起こり、ポーたちが暮らす町は壊滅的な打撃を受ける。五百年ぶりのこの出来事を予感したうなぎ女たちは、舟を作り、町の人たちを舟の上に放り投げる。うなぎ女は、何千年も前から、うなぎたちとともにこの川で暮らしてきた。うなぎ女は川を守る。川の水と、そこに住み暮らすあらゆるものを。

 
フルー、フルー。
 川のつづくかぎり、かあさんたちはうなぎ女。
 いつもおまえのしあわせとともにある。

川にはかぎりがあるのだろうか? そこにはどんなうなぎがいるのだろうか? ポーは偶然、舟に乗り合わせた「天気売り」とともに、更に下流へと下流へと進んでいく。

ポーたちは、川べりに住む、老猟師と少年、「子ども」という名の犬と出会う。この場所は外界から閉ざされている。少年に外界のことを教えてやってくれと、老猟師に頼まれたポーたちは、しばらくこの地に滞在することになる。ここで、ポーたちが学んだのは、自分ではない何者かの目を通して見るということ、死んだ体を何よりも大事にしなくてはならないということ。息をしなくなった体は、もうその者だけのものではなく、残された者たち全てのもの。

川が出来るよりずっと古くから、真っ黒い水底に潜んで、生きてきたであろう大うなぎを追って、ポーはさらに下流に下る。

いくつもの村を過ぎ、工場が増えた辺りで、ポーの相棒である「天気売り」が、この地特有の毒虫にやられてしまう。そこで、彼らは「埋め屋」夫婦に出会い、ポーは人足として穴掘りと穴埋めを、「天気売り」は「埋め屋」の女房のレース鳩の世話をすることになる。ここで、ポーが学んだのは、誰かの眼に自分がどう映っているかということ、誰かが大切だと思うもののために、どこまでも自分を捨ててしまう者もいるということ。

ポーは、更に水に入り、さらに下る。そうして、ポーは海に出る。ポーの相棒となったのは、今ではぼろぼろになった女人形。女人形は諭す。表面上の間違ったことは、ただの照り返しで重要なことではない。一番深い底で、間違ったことをしないことが、大事なのだ。間違ったことをすると、それぞれの頭の上で空が塞がって、みんなが同じ空の下で生きるという、当たり前のことが出来なくなってしまうのだ。

流れ着いた港町は、若者たちが出て行ってしまった老人たちの町。ポーは、老人たちに可愛がられ、そこに暮らす。この町は、ある出来事をきっかけに、それまでの豊かな漁場を失っていたのだけれど…。ポーがここで出会うのは、鉱水の中で生きる「うみうし娘」たち。

 
ふかいふかいそこで、まちがえないよういきていくのが、ほんとのつぐないですよ。

今では白い肌となったポーは、そうして、つぐないをして生きていく。長いつぐないの旅を終えたポーは、更に潜る、潜る…。たぶん、そうして物語は繰り返す。美しい装丁そのままのような、幻想的で童話のような物語です。

なんだろうな、「うなぎ女」とか「うみうし娘」とか、本来、あんまり美しいとは思えない存在が、生命力にあふれた美しい存在として描かれるのですよね。いしい作品の「美しさ」って、何だか独特だよなぁ。うみうしは、カバー扉や、表紙裏にも愛らしく描かれている(過去、
こんな本 を読んだこともありましたが…。海で踏みたかないけど、綺麗ですよね、海牛とかナマコとか)。

■関連過去記事■
プラネタリウムのふたご 」/しあわせ

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。
トラバが飛ばない「みすじゃん。」のおんもらきさんの記事へのリンク → 

そう、ポーは循環し続けるのです。
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小山 歩


二〇〇二年、戒の墓が見つかった。帯沙半島は、この報せに沸き返る。なぜなら、戒とは、半島史に残る伝説の奇人であり、希代の嫌われ者であったから。実在を疑われた戒であったが、彼は確かに生きていたのだ。

体は人間、真っ赤な猿のような顔に、甲高い声できぃきぃ喋る、言うならば猿人間である戒は、猿のまねをした道化舞が異常にうまかったのだという。

そうして、そこから語られるのは、半島の先端にある沙南の小国、再の国の歴史、戒の人生。希代の嫌われ者であり、逆臣とされた戒の真実の姿とは一体どんなものだったのか? 読者は二〇〇二年から、一気に戦乱の古代帯沙半島へと連れ去られる。

再国の公子・明と三日違いで生まれた戒。名門である延家に生まれ、また母、晶夫人が公子の乳母となったことから、戒は公子とともに最高の教育を受けて育つ。戒は後の世に言われるような痴れ者ではなく、文武両道とも言うべき、神童の誉れ高い少年であった。時に戒の優秀さは、公子をも凌ぐものであったのだが…。

母、晶夫人は、わが子である戒が、公子・明に勝つこと、並び立つことを望まない。彼女の望みは、戒が明の影となって生きること。晶夫人は、公子・明の浅はかな行いから、凄絶な最期を遂げるが、その後に及んで、戒に一つの約束をさせる。この約束に縛られた戒は、武官としても文官としても、任官することがかなわない。また、戒の母、晶夫人が第二夫人であったこともあり、戒は強く望まれたにも関わらず、軍事を取り仕切ってきた延家の総領となることもしない。

そうして、戒はどうやって生きていくのか? 亡き晶夫人に縛られた戒は、常に公子・明の傍にあらねばあらず、旅と学問に生きる遊子に憧れつつも、公子・明を護り、楽しませる道化として生きることを決意する。

名門に生まれた貴族であるにも関わらず、いつしか戒はみなに馬鹿にされ、軽んじられる本物の道化者となる。彼の深遠なる目的を知る者は、ほんの僅か…。

さて、人は己の才を隠したまま、道化であり続けることに耐えられるのか? 己の目的を誰にも理解されないことに耐えられるのか? 戒は時にぶれ、時に倦む。そうして、時に大切な人を失っていく…。

類稀なる「舞舞い」であった戒であるけれど、当初、それは人を楽しませるための方便でしかなかった。しかし、彼の舞いは本来、そんなもので終わるものではなかった。踊りの神に愛された戒の舞は、人々を魅了する。

そうして、何者にもなることを選ばなかった、選べなかった戒は、最後に「舞舞い」となることを選ぶ。生きている者たちのために、死んでいった者たちのために、戒は全霊をかけて舞う。

 人にもなれず、猿にもなりきれず、
 延家も追われ、お山も遠く、
 せめて山に似た巣を作ろうと
 戒、戒、家がないから、小屋に住む

「あなたの舞は、決して小さくなんかないよ。無力じゃない。戒兄、あなたの舞にかかわったものが、あなたを誇っている。愛している」

ラストの戒の舞は圧巻ですよー。

目次
 序章 墓と伝説

第一部 小屋に住む戒
 一章 緑野の夢
 二章 鹿を狩る夢
 三章 旅をする戒
 四章 春の風、夏の雨
 五章 戒より始めよ
第二部 宮殿に住む戒
 一章 新居の戒
 二章 軍師と舞舞い
 三章 弟たち
 四章 楊の蒼王
 五章 猿の帰還

 終章 陵墓の戒


全体としては、酒見賢一さんの「後宮小説」 を彷彿とさせる、中華風味の架空歴史小説。酒見さんのような軽みはないんだけど、丹念に描かれる架空の国、「再」の国の歴史にはぐいぐいと引き込まれる。軽みでいえば、類稀なる「舞舞い」である戒の舞や、その他の芸能も魅力的。再の国の歴史自体は、結構骨太に語られているように思います。

ページを開けば、そこには所謂洋モノファンタジーではない、けれども豊かな想像力に支えられた、アジア的ファンタジーの世界が広がります。一冊しか出ていないのが如何にも惜しい!

「後宮小説」は、第一回ファンタジーノベル大賞受賞作でありますが、一方のこの作品もまた、ファンタジーノベル小説がらみ。第14回ファンタジーノベル大賞の優秀賞受賞作であります。
参考までに、新潮社の該当ページにリンク

このときの大賞は、西崎憲さんだったのですね。
ああ、西崎さん翻訳の『英国短篇小説の愉しみ』(全三巻)は、積みっぱなしでありますよ。汗

この本のことは、「みすじゃん 。」のおんもらきさんのところで知りました。

 ■おんもらきさんの記事はこちら

すっごい面白かったです! おんもらきさん、ありがとう~。

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。
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ポール オースター, Paul Auster, 柴田 元幸

ミスター・ヴァーティゴ


これはですねー、超楽しい読書でした。

内容はウォルト少年が語る一代記なんだけど、まぁ、これがとんでもない出来事が物凄い勢いで起こっていくのです。このとんでもなさっぷりは、ちょっとお伽話的でもある。「とんでもない出来事」の中には、いい事も悪い事も、嬉しい事も悲しい事も、割り切れる事も割り切れぬ事も含まれる。それでも、転がる石には苔生さぬとでも言いましょうか、悪餓鬼であり、イェフーディ師匠の言葉を借りれば、「獣」だったウォルトは、そこからの生き直しを、常に新鮮な気持ちで全力でぶつかって行く。このウォルトの心意気が実に清々しい。どんな事があっても、強く、イキの良さを失わないウォルトの生き方は、きっと生への賛歌。

ウォルトがイェフーディ師匠に拾われたのは、九歳の時。セントルイスの街で小銭をせびって暮らす、みなしごだったウォルトが見込まれたのは、ウォルトが誰よりも小さくて、汚くて、みじめったらしかったから。人間の形をしたゼロであるウォルト。師匠は自分についてくれば、ウォルトは空を飛べるようになるというのだが…。勿論、すれっからしのウォルトは、最初から師匠のこの言葉を信じたわけではないけれど、師匠と共に汽車に乗ってカンザスの田舎町へと辿り着く。そこで待っていたのは、辛い修行の日々と、初めての友だち、初めての家族のような存在。師匠の言葉通り、空を飛べるようになったウォルトだけれど、今度は彼が安らいだ「家庭」が壊される。兄のような存在だったせむしの黒人少年、イソップ、母のようだったインディアンのマザー・スー。有色人種である彼らは、KKKに殺される。この「空を飛べるようになる」、「ウォルトが人間となる」までが、第Ⅰ部

第Ⅱ部ではいよいよ、空を飛ぶ「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」の公演が始まる。それは、1927年の夏に始まり、舞台は田舎町から最後はニューヨークへ…。ところが、今度はめまいがウォルトを襲う。空を飛べなくなったウォルトを、イェフーディ師匠は見捨てるのか? いやいや、イソップとマザー・スーを失い、今では二人となってしまった彼ら。師匠は彼ら二人の次の生活を提案する。新しい道を目指す彼らの前に現れたのは、悪夢のようなスリム伯父。ウォルトの成功を妬む伯父は、とんでもない行動に出る。ここまでが第Ⅱ部

「楽しかった日々を忘れるなよ」、それが師匠の言葉だったけれど…。十八になったウォルトは、スリム伯父に追いついた。そして、そこでシカゴの裏社会に君臨するビンゴと出会う。これがウォルトの新しいキャリア。腹心としてのぼりつめたウォルトは、シカゴのど真ん中でクラブを経営するまでになるのだけれど…。偶然出会った、懐かしのイェフーディ師匠が愛した女性、ミセス・ウィザースプーンが言う通り、ウォルトが積み重ねているのは、「泥棒ごっこ」のキャリア。泥棒ごっこに未来はない。そうして、ウォルトはまたも絶頂から転がり落ちる。二十六歳になったウォルトは軍隊に入隊する。ここまでが第Ⅲ部

除隊したウォルトは、そこから職と住居を転々とする。そして、人生で二番目に賢明な選択と言える(一番目は、イェフーディ師匠に着いていったこと)結婚をして、その後の二十三年間を幸せに過ごす。ところが妻のモリーは癌におかされ、彼を残して逝ってしまう…。痛手からようやく立ち直り、甥のもとへと旅立つはずだったウォルトが立ち寄ったのは、第Ⅱ部でウォルトとイェフーディ師匠とミセス・ウィザースプーンの三人で暮らした、懐かしのウィチトーの街。そして、そこで出会ったのは、まさにミセス・ウィザースプーンその人!
けれども、ウォルトの前をそうして、みんなが過ぎ去って行く。そして、ウォルトが最後に出会ったのは…。まるで昔の彼を見るような、ユセフという通いの掃除婦の子供。これが第Ⅳ部で、ウォルトの語るなが~い物語もお終いとなる。

こうして、ウォルトの一代記が語られるのだけれど、それはアメリカの歴史とも無縁ではない。KKKや大恐慌など、それらも合わせてこの物語となる。

ポール・オースターって、前に読んだのが「最後の物たちの国で 」だったので、もっと暗いというか、切実な感じの文章を書く人だと思っていたのだけれど、こんな楽しい物語もかけるのですね。ま、こちらも単純に「楽しい」物語ではないのだけれど、最後の物たちの国で」が少し淡い色彩を帯びた物語だとすれば、こちらはぐいぐいと原色で描いたような物語なのです。この勢いを借りるとすれば、次は「ティンブクトゥ」だ!

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イーユン・リー, 篠森 ゆりこ

千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)


目次
あまりもの
 Extra
黄昏
 After a Life
不滅
 Immortality
ネブラスカの姫君
 The Princess of Nebraska
市場の約束
 Love in the Marketplace
息子
 Son
縁組
 The Arrangement
死を正しく語るには
 Death Is Not a Bad Joke If Told the Right Way
柿たち
 Persimmons
千年の祈り
 A Thousand Years of Good Prayers
訳者あとがき


これ、めっちゃくちゃ良かったです!
同じ新潮クレスト・ブックスシリーズでいうと、「
停電の夜に 」のような短編集なんだけれど、「停電の夜に」で少し感じた、人生の疲れ、澱のようなものがほとんどない。

かといって、決して悲しくないわけでも、幸せいっぱいなわけでもないのだけれど、感情のエッセンスが純粋に昇華されている感じ。ペーソス、ユーモア、すべてが恬淡と、いっそほのぼのと語られる。

「あまりもの」
行かず後家の林(リン)ばあさんはいつだってあまりもの。寡婦の王(ワン)ばあさんの勧めに従って、今にも死にそうな金持ちの年寄りと結婚しても、全寮制の私立学校に職を見つけても…。
「愛の幸せは流星のように飛び去って、愛の痛みはそのあとに続く闇のよう」
林ばあさんを道で追い越した少女が口ずさむ。

「黄昏」

蘇(スウ)夫妻と、方(ファン)夫妻のお話。いとこ同士の蘇(スウ)夫妻は、遺伝的な障害を心配する親族の反対を押し切って結婚した。すべては確率の話。障害を持つ子が生まれてくる確率は、蘇氏の計算ではごく少ないもののはずだったのだが…。彼らの元に生まれてきた貝貝(ベイベイ)は、重度の知的障害と脳性まひを持っていた。しかし、それは決して不幸ではなかった。皮肉なことに、蘇夫妻を互いに遠ざけたのは、その後の子、健(ジエン)の誕生だった。
 
「不滅」

数々の宦官を送り出してきたわたしたちの町。宦官たちは町に富を送り、わたしたちは宦官が死出の旅に出るとき、盛大に送り出した。王政の時代は過ぎ去って、共産主義がやってきた。わたしたちの町が今度送り出したのは、独裁者、毛主席と瓜二つの顔をした若者。

「ネブラスカの姫君」

医師である伯深(ボーシエン)は、同性愛者でもあった。天安門事件からこちら、人権や、エイズについて語ることの危なさを思い知った伯深は、偽装結婚をしてアメリカへと渡る。幼いころから京劇の男旦(ナンダン:京劇の舞台で女役を演じる男優)として仕込まれ、のちに「娼夫」となった二十歳も年下の恋人陽(ヤン)を残して…。陽は同性愛者であるために、舞台から追われていた。伯深は陽を京劇の舞台に復帰させると約束するのだが…。
アメリカへ渡った伯深の元へ現れたのは、陽ではなく薩沙(サーシヤ)。薩沙は陽の子がお腹にいるのだと話し、中絶を望む。

「市場の約束」
三三(サンサン)は何よりも約束を重んじる。それは友人と恋人の手酷い裏切りにあってなお。三三は頭の中で、彼ら二人のセックスを思い浮かべすらする。それはまるで三人の結婚生活のよう。ところが、彼ら二人の結婚は破れてしまった。だからといって、周囲が望むように、彼と付き合いなおすことなどできようか。三三は何よりも約束を重んじるのだから。

「息子」
今ではアメリカ市民となった三十三歳、独身のハン。里帰りで母に会うたびに、いつも衝突してばかり。子としての務めを抱えた息子でいるのは楽じゃない。同性愛者であるハンは、一生、「母の息子」でいるしかないのだが…。

「縁組」
病弱な母親と暮らす若蘭(ルオラン)。茶葉の販売員である父親は、一年のほとんどを外で過ごす。若蘭が物心ついてから、父親の帰宅は年末の大掃除と春節のみ。父のいない間、若蘭たちを助けてくれるのは、炳(ビン)おじさん。
そして、若蘭が十三歳となったとき、父親は母親にとうとう離婚を切り出した。若蘭は父と共に行くことを望むのだが…。炳おじさんが語る、彼らの家庭に隠されていた秘密。

「死を正しく語るには」

誰かの子供でいることは、その立場からおりることのできない難しい仕事。研究所の中に住み、教師をしている母から逃れ、厖(パン)夫妻の家で過ごす夏と冬の一週間は、「わたし」にとってとても貴重なものだった…。研究所で育った子供たちの遊びの中では、研究所の防犯ゲートから外へ出ることも、灰色の建物に近づくことも許されない。
今ではアメリカで暮らす私は、遠い地で厖夫妻のこと、その近所の人たちのことを思う。


「柿たち」

老大(ラオダー)は十七人もの人間を殺した英雄だ。干ばつに見舞われた「わたしら」が思い出す、老大のこと。これは天罰なのか? しかし、この干ばつがもたらしたのは、日がな一日、槐の老木の下に座って煙管をふかし、だらだらと語り合うけだるい喜び。

「千年の祈り」

離婚した娘を慰めるために、娘が暮らすアメリカを訪れた石(シー)氏。ところが、娘は彼の慰めを受け容れるどころか、迷惑な様子を隠そうともしない。近所を散歩中に知り合った、言葉の通じないイラン人の「マダム」とは、心が通じ合うというのに…。
娘によって暴かれる石(シー)氏の不名誉な過去、そして娘の離婚に至った事情。
どんな関係にも理由がある。たがいに会って話すには、長い年月の深い祈りが必ずあったはずなのだ。愛する人と枕をともにするには、そうしたいと祈って三千年、であるならば、父と娘ならばきっと千年。人は偶然に父と娘となるのではない。石(シー)氏の想いは、娘に届くのか?

長々と書いてしまったけれど、それはどれも甲乙つけ難いお話だったから。短編なんだけど、話がぶわーーーっと広がっていく感じがするのです。

ダイ・シージエも中国人でありながら、フランス語で小説を書いているのだけれど、この作者、イーユン・リーも母語ではなく英語で物語を書く。母語では書けないこと。新しい言語を獲得したからこそ、書けること。中国の文革の爪あとはいまだに深い。

■関連過去記事■
・ダイ・シージエ「
バルザックと小さな中国のお針子 」/一九七一年、中国の青春
・ダイ・シージエ「
フロイトの弟子と旅する長椅子 」/フロイトの弟子にして、ドン・キホーテ、莫(モー)がゆく
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梨木 香歩
ぐるりのこと

目次
向こう側とこちら側、そしてどちらでもない場所
境界を行き来する
隠れたい場所
風の巡る場所
大地へ
目的に向かう
群れの境界から
物語を


普通は「小説」よりも「エッセイ」の方が、軽く肩肘張らずに読めるものだと思うのだけれど、梨木さんは珍しい作家さんで、全く逆。
梨木さんの「エッセイ」は、「軽い読み物」などでは決してなく、その思索の過程を綿密に辿るような重いもの(って、「春になったら莓を摘みに」と本作しか読んでないんだけどね)。

本作は、梨木さんが旅先で出会った人、出会った言葉、身辺のこと、まさに身の回りの「ぐるりのこと」(この「ぐるりのこと」は、先年亡くなった、京都周辺で開催される茸の観察会の指導者として著名だったという、吉見昭一さんの言葉から貰ったのだという)。

梨木さんの思索は、本当に生真面目で誠実。こんなに考えていたら、疲れてしまうのではないかなぁ、と思うほど。それでも、梨木さんは深く長く考え続けていく。こんなにぎっちりと思索をする人の物語が、むしろすかすかに程良く空気が抜けるように思えるほどになるには(「
家守奇譚 」とか「村田エフェンディ滞土録 」とか)、一体どれほどの推敲を重ねられたのか、とくらくらと眩暈がする思いがする。

でも、きっと「物語」とはそういうもの。「ほんとう」のことをそのまま書いても、また言いたい事を全部詰め込んでも、それは人の心に届く物語にはならない。そうやって、削いで削いで削いでいったものが、大吟醸のように豊穣な物語となる(そういう意味では、梨木さんの「裏庭」は私にはまだちょっと息苦しい)。

いろいろ、引きたいところもあるのだけれど、最後の「物語を」から、梨木さんの「物語」に対する思いの引用を。

近代化され、西洋化された現代の日本で、アイデンティティという言葉が使われるようになって久しいけれど、幾重にも取り囲む多層の世界、多様な価値観、それぞれとの間断なき相互作用、その中心にある不安定で動的な「自己」に、明確なアイデンティティを自覚するのは、生半可なことではないのだ、本当は。ましてやその「自己」が自身を取り囲む多層な世界を語り出す、などということは。その中に棲まう、地霊・言霊の力とおぼしきものを総動員して、一筋の明確性を辿りゆくこと、それが「物語化」するということなのだろう。

物語を語りたい。
そこに人が存在する、その大地の由来を。

梨木 香歩
ぐるりのこと (新潮文庫 な 37-8)  ←文庫化もされているようです

■この本の中に出てきて、気になった本のメモ。



*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

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恩田 陸
小説以外

酩酊混乱紀行『恐怖の報酬』日記 」で、何だか興味が湧いてきちゃった恩田さんの日常生活。
いそいそとこちらの本を読んでみました。

小説ではなく、エッセイから透かし見る恩田陸とは?

いつものように目次を書きうつそうとしたら、何だかとんでもない量なので、今回は諦めました。自作について、本格推理小説、ファンタジーについて、小説の解説など、長さもばらばらな本に関する様々な文章が集められている(時に、お酒や料理、二足の草鞋を履いていた頃の二重生活の話なども)。

これを読んで意を強くしたのは、恩田さんはやはり「予感」の作家さんだということ。それは、映画番組の最後に放映される、放映予定の映画の紹介を見る時が一番わくわくしていたという話、本のカタログを見るのが好きで、本の背表紙、タイトルから話の内容を想像するのが楽しかったという話にも現れているし、様々な小説の予告編が集まったような物語である、「三月は深き紅の淵を 」が書かれたことにも現れている。

常に入口を、予感を探しているような感じ。こういうのは自分にも良く分かることで、勿論本を読むことは非常に大きな喜びなのだけれど、まだ頁を繰る前、ただその形を見ている時の、物語が自分の前に立ち現れる前のわくわくした気持ちは他にはないものだなぁ、と思う。

面白かった章を挙げる。

これだからイギリス人は・・・・・・
架空長編アンソロジー
予告編と本編の間で

恩田さんがこよなく愛するミス・マープルシリーズ。私はクリスティといえばポアロ派なのだけれど、ミス・マープルの良さがそろそろ分かるようになったかしら・・・。冷徹な観察眼と、些かの稚気、教養と合理性に、ちょっと風変わりのスパイスを効かせた「イギリス人のミステリ」。やっぱり、この辺は安定した良さがあるよねえ。恩田さんの擁護があってなお、本格推理小説の様式美にはやっぱり慣れないんだけど・・・。

この本を読んで気になった本。

・ハリー・クレッシング「料理人」
・飯嶋和一「神無き月十番目の夜」
・ベルナール・ウェルベル「蟻」
・ゼナ・ヘンダースン<ピープル・シリーズ>
・I・コールドウェル&D・トマスン「フランチェスコの暗号」

しかし、こういう「読んでいる」人の本を読むと、自分って全然本のタイトルを知らないなぁ、と思うですよ。「架空長編アンソロジー」なんて、小説自体が架空なのか?、と思っちゃいましたもん(ウォーターシップダウンのうさぎたち」で我に返ったけど)。

そして、恩田さんのファンならば、自分が読んだ本の背景を知ることが出来るのも嬉しいところ。あちこちから集められた文章なので、長さもバラバラだし、ペースを掴むまではちょっと読みづらかったのだけれど、ああ、これはこの話だよね、とニヤニヤしながら読んじゃいました。
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