日本人の2人に1人が癌になるというのは異常ではないだろうか。
このままでは、日本人の全員が癌になるかもしれない。
また、認知症になる老人の数があまりに多くはないだろうか。
このままでは、日本人の全員が認知症に侵されて死ぬことになるかもしれない。
私が、20代の頃は、こんなではなかったと記憶している。そこまで癌に侵されてはいなかった筈である。
認知症についても、それほど騒がれてはいなかった筈である。
つまり、ここ20~30年ほどで事態が大きく変わってしまったのである。
若い芸能人が次々に癌になっているニュースに、日本の現状を痛感している。
何が変わったのか、私はその一つにコンビニ依存が強くなったことが大きな変化だと感じている。
コンビニ食品は、見た目がきれいな食品だが、食品添加物が実に多い。
中国製の食品も気になるところだ。他の国の輸入食品も大丈夫だろうか。
スーパーの野菜があまりにきれいすぎる。自然の形ではないような気がする。
自然の失われた食品を摂取することで、生命力(エーテル体)が失われていく。
パソコンやスマートフォンから発せられる電磁波も気になる。
生命力が失われるということは、癌になりやすいということである。
そうなると、夜更かしとか無理をすることは、もはや美徳にはならなくなってくる。
以前は大丈夫であったことも、現在の人にはリスクが大きいといえるからである。
現代人は、自然を取り戻すことをしなくてはいけない。
周に数回、公園に行って木々と触れ合うとか、山の方に足を運んで小川の水に触れ合うとか、湧き水を飲むとか、そんなゆとりが必要なのかもしれない。
ペットに触れ合うことも良いのかもしれない。彼らの波動は自然そのものだからだ。家庭で花を育てるのでも良いのかもしれない。
今のままでは、日本人のすべてが癌になり、仮に長生きしたとしても全員が認知症で死ぬ日という日もそう遠くないのかもしれない。
見えない魔の手が、もうすでに自分の身にも降りかかっていることを、私たちは認識しなくてはならないのである。
私が小3の時、学研の科学の小学生雑誌を見て、何でも原子力に依存する未来に疑問を抱いた。きっと未来は、原子力の公害で大変なことになると予測した。高校生の時、使い捨てライターに疑問を抱き、ビン類がお店でリサイクルされなくなったことに疑問を抱いた。きっと未来は、ゴミの処理と資源の不足で大変なことになると予測した。
人生経験に不足した子供にも予測できたことを、何で大人は予測できなかったのか。多分、予測はできていた筈なのだが、どうしてその予測を無視してしまったのか。
どうやら「コスト主義」にあったように思えるのだ。原発も高出力で低コストだから採用されたと思うのだが、廃棄物の処理問題や廃炉のことを無視して開発が進んでいったのである。
一部の人たちのお金儲けと人類の幸福は、相反するものなのかもしれない。
とはいえ、
二手三手先を読むならば、こういった時代の意味が見えてくる。ただ私の抱いているイメージをここで紹介することはできない。とはいえ、このイメージがあるからこそ、子供たちの教育に熱中できているのかもしれない。
恵翠書院 盛岡教室
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字は形が整っていて上手く書けているのに、魅力が感じられない。
そういう字を書いている子の字は、良い線になっていない場合が多い。
そこで、良い線を理解するためには、良い線と悪い線を見分ける力が必要となる。
そこで、良い線で書かれた書と、悪い線で書かれた書を見比べてもらう。
理解できたなら、次に、良い線を書くにはどうしたらよいかを考えてもらう。
書くスピードについて考えてもらう。
早過ぎてもいけないし、遅過ぎてもいけない。
そこまで理解できたら、次に、生きの良い線とそうでない線について考えてもらう。
活字のような字になっていると生きの良いとはいえない。字の中に微妙な強弱がなくてはならない。
そこで、生きの良い線で書かれた書と、そうでない線の書を見比べてもらう。
理解できたなら、次に、生きの良い線を書くにはどうしたらよいかを考えてもらう。
線に微妙な強弱を付けるには、筆の持ち方が重要であることがそこで理解できるようになる。
また技も必要になってくる。その技を習得するには、何度も練習しなくてはならない。
つまり、部分練習が重要であることを理解できるようになる。
教師は、最初から教えないで、その子に試行錯誤させる。ヒントは教えるが、その子が自力で見つけたなら大いに褒める。
試行錯誤した方が、理屈が理解できるからだ。
課題を通して書いても、あまり力が付かない。一度通して書いてみて、課題が見つかったなら、徹底的にこういった部分練習をするべきなのだと思う。
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そういう字を書いている子の字は、良い線になっていない場合が多い。
そこで、良い線を理解するためには、良い線と悪い線を見分ける力が必要となる。
そこで、良い線で書かれた書と、悪い線で書かれた書を見比べてもらう。
理解できたなら、次に、良い線を書くにはどうしたらよいかを考えてもらう。
書くスピードについて考えてもらう。
早過ぎてもいけないし、遅過ぎてもいけない。
そこまで理解できたら、次に、生きの良い線とそうでない線について考えてもらう。
活字のような字になっていると生きの良いとはいえない。字の中に微妙な強弱がなくてはならない。
そこで、生きの良い線で書かれた書と、そうでない線の書を見比べてもらう。
理解できたなら、次に、生きの良い線を書くにはどうしたらよいかを考えてもらう。
線に微妙な強弱を付けるには、筆の持ち方が重要であることがそこで理解できるようになる。
また技も必要になってくる。その技を習得するには、何度も練習しなくてはならない。
つまり、部分練習が重要であることを理解できるようになる。
教師は、最初から教えないで、その子に試行錯誤させる。ヒントは教えるが、その子が自力で見つけたなら大いに褒める。
試行錯誤した方が、理屈が理解できるからだ。
課題を通して書いても、あまり力が付かない。一度通して書いてみて、課題が見つかったなら、徹底的にこういった部分練習をするべきなのだと思う。
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現在の世界の状況はまさにカオス(混沌)と言えるのかもしれない(自然災害までも猛威を振るっている)。
正義と悪が戦っているというより、多くの正義が存在し、正義が正義と戦っている感じがするのだ。
カオスを生き抜いていくには、その正義という名のカードを多く持たなくてはならない。つまりは多くの価値観を学ばなくてはならない。そういう時代なのだ。
もはや一枚だけの正義のカードだけで生きられる時代ではない。もはや世界は、そんな平和な時代ではなくなっているのだ。
そして、二手、三手先を読んで、その場にふさわしいカードを切っていかなくてはならない。
もちろん嫌なカードも切らなくてはならない。一時的に妥協しなくては、そこで終わってしまう。意味のない戦いは避けたいものだ。義を重んじるばかり死んでしまっては意味がない。
というのは、カオスの時代は激しく動くからだ。強い者が強いままではいられないのだ。だから、妥協は負けではない。次のチャンスを待つための時間稼ぎなのだ。
とはいえ、きっと最後に切るカードは、一番素晴らしいカードになるのだと思う。
時が流れ、数々の苦しみを乗り越えながら、すべての人が、その素晴らしいカードに願いを込めるようになっていくのである。そこが重要だと思う。
シュタイナー教育では、自力で解決できる力を身に付けさせていく。何事にも諦めない精神を身に着けさせていくのだ。
そうして築き上げられ、高められた応用力が、学び身に付いた知識と共に、冷静に先を読める力へと繋がっていくことだろう。
この子供たちが、立派にこのカオスを立派に生き抜き、カオスの時代を終わらせてくれることだろう。そして、平和な世界を築いてくれることだろう。
だから、この時代を憂いてはいけない。憂いている暇などない筈なのだ。自分中心のちっぽけなことに一喜一憂してなんていられない。学ぶべきことを学び、良く黙想し、天の声を聞きながら、冷静に判断をしながら生き抜いていかなくてはならない。世界に目を向けてみよう。日本のような平和な状態にあるだろうか。「もはや遊んでなんかいられない」という意味がきっと理解できることだろう。
私は、そんな賢くて強い子供を育てていきたい。もちろん、子供たちに上記のようなことなど直接教える機会は無いかもしれないが、私たちが基盤づくりの教えをしっかりできるのなら、子供たちは、自分の力で、自分の意志で学び、理解し、多くの課題を乗り越えてくれることだろう。
幕末に明治維新を実現するための優れた人材を多く輩出した吉田松陰の松下村塾ではないが、これは私塾だからこそできる方向性なのだと思う。
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正義と悪が戦っているというより、多くの正義が存在し、正義が正義と戦っている感じがするのだ。
カオスを生き抜いていくには、その正義という名のカードを多く持たなくてはならない。つまりは多くの価値観を学ばなくてはならない。そういう時代なのだ。
もはや一枚だけの正義のカードだけで生きられる時代ではない。もはや世界は、そんな平和な時代ではなくなっているのだ。
そして、二手、三手先を読んで、その場にふさわしいカードを切っていかなくてはならない。
もちろん嫌なカードも切らなくてはならない。一時的に妥協しなくては、そこで終わってしまう。意味のない戦いは避けたいものだ。義を重んじるばかり死んでしまっては意味がない。
というのは、カオスの時代は激しく動くからだ。強い者が強いままではいられないのだ。だから、妥協は負けではない。次のチャンスを待つための時間稼ぎなのだ。
とはいえ、きっと最後に切るカードは、一番素晴らしいカードになるのだと思う。
時が流れ、数々の苦しみを乗り越えながら、すべての人が、その素晴らしいカードに願いを込めるようになっていくのである。そこが重要だと思う。
シュタイナー教育では、自力で解決できる力を身に付けさせていく。何事にも諦めない精神を身に着けさせていくのだ。
そうして築き上げられ、高められた応用力が、学び身に付いた知識と共に、冷静に先を読める力へと繋がっていくことだろう。
この子供たちが、立派にこのカオスを立派に生き抜き、カオスの時代を終わらせてくれることだろう。そして、平和な世界を築いてくれることだろう。
だから、この時代を憂いてはいけない。憂いている暇などない筈なのだ。自分中心のちっぽけなことに一喜一憂してなんていられない。学ぶべきことを学び、良く黙想し、天の声を聞きながら、冷静に判断をしながら生き抜いていかなくてはならない。世界に目を向けてみよう。日本のような平和な状態にあるだろうか。「もはや遊んでなんかいられない」という意味がきっと理解できることだろう。
私は、そんな賢くて強い子供を育てていきたい。もちろん、子供たちに上記のようなことなど直接教える機会は無いかもしれないが、私たちが基盤づくりの教えをしっかりできるのなら、子供たちは、自分の力で、自分の意志で学び、理解し、多くの課題を乗り越えてくれることだろう。
幕末に明治維新を実現するための優れた人材を多く輩出した吉田松陰の松下村塾ではないが、これは私塾だからこそできる方向性なのだと思う。
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最近の私のブログの記事では、かなりぶっ飛んだ内容が続いてしまった。
それでも自分的には、かなり抑えて書いているつもりではある。心のままに書いてしまうと、ぶっ飛び過ぎて大変なことになってしまうからだ。
さて、そこで大きな気づきを得ることができた。
良い教育とは、自然と触れ合うゆとりを持った授業を心掛け、子供が自力でいろいろな解決策を見つけ出すお手伝いをする。一人一人の子供の子供目線でのコミュニケーションを大切にし、時には、その子とじっくり、とことん付き合い、ぶっ倒れるほどやり抜いた後に新しい力が得られることを体験させるといった「限界越え」も体験させる。これこそがシュタイナー教育の神髄なのである。
多分、天界のマスター(守護霊ともいえるのかもしれない)は、そのように私と付き合ってくれている筈である。それゆえ、私は多くのインスピレーションを得て問題を解決できているし、きっと解決できるといった自信というか安心感すら得ているのである。
天界のマスターたちが、私にしてくれていることを、教育現場で子供たちにすれば良いのである。
つまり、安易に答えを教えることはせずに、その子のレベルでコミュニケーションをして、その子が自力で問題解決できるように導いていく。そうすることで、本当の力が身についていくのである。
そういう子は、きっと、自力で多くの壁を乗り越えて、いつかは教える教師をも超えていくに違いない。私が、教え子に学ぶということになったら素晴らしい。というのは、自分が乗り越えただけでは、まだ半分であり、それでは自己愛のレベルだからだ。他者を乗り越えさせることができてこそ、他者愛が加わり、より完成されていくのである。
ここまで話したことは、カウンセリングにも応用できることだと思う。
解決策を教えてしまうのではなく、その人が自力で問題解決できるように、その人目線でのコミュニケーションを取ることで、「気づき」へと導いていくのである。
だから、私は、どんなに答えを持っていても、答えを話すことがあってはならないのだ。その答えは、私が「気づき」よって得られたもので、あくまで私だけのもので良いのである。
人は、自分越えをするには、大変な努力が要る。さらにそれを継続して行うには、それなりの決意が必要となる。短期間にそれをなすことなど困難である。まずは、自分サイズから始めなくてならない。他人サイズでは、挫折してしまうからだ。
自分サイズから少しずつ、時間をかけてゆっくりと、そして着実に自分越えに取り組んでいくのである。
「優れた人ほど語らない」という意味が少しわかってきたような気がする。語ってしまっては教育にならないからである。
〈補足〉
例えば、ショパンの演奏法をピアノの入門者に教えようとしても伝えることはできないことと似ている。ショパンを弾けるだけの腕前を持つだけの修業をした者にしか伝えられないのである。
私は、現在のイマジネーションを得るために素地に30年。専門的な学びを約3年やっているが、そうして得たことを果たして、素地も何もできていない人に伝えられるかと言うと伝えられないように思うのである。
昨日は、紫波町のビューガーデンにて、「鳥山敏子先生を偲んで 賢治の学校との交流会」に参加した。とても有意義な学びをしたので、後日、そのことを記事に書いて紹介したいと思う。
交流会から帰ってくると、玄関前に生ごみが置いてあり、カラスに荒らされていた。母の話だと、明日が可燃ごみの日なのだが、先週もそうだったが前日にごみを出す人がいて、家がゴミ当番なので置かれたとのことだが、家の中に置かないといけないのに玄関に置いたままにしていたので酷いことになっていた。それを必死で掃除し、一段落したと思ったら、父が悶絶しているので、車に乗せて岩手医科大学工事救急センターに連れて行った。
私がいないことをいいことに、食べたいだけ食べ物を食べたようである。その結果、また胃に穴が開き、集中治療室に逆戻りとなった。家族が全面協力し、普通に食事ができるようにまで回復したのにである。裏切られたような気分だった。しかも、先週には、入院していた病院で脱走を繰り返し、強制退院させられるなど育ちの悪い生き方が完全に蘇っている感じだった。子供の頃は不良グループの番長で、喧嘩が強いことがこの人の誇りだったようだが、私は幼少からこの人のDVに随分苦しめられてきたので、教育の重要性を感じるようになったのだと思う。
救急患者が多かったため、入院できるようになるまで深夜の11時を回っていた。家に帰ったときには午前0時を回っていた。母も介護者で歩行困難。妻は仕事のことで手一杯。私が倒れたら、この家族はどうなるのだろうか。
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それでも自分的には、かなり抑えて書いているつもりではある。心のままに書いてしまうと、ぶっ飛び過ぎて大変なことになってしまうからだ。
さて、そこで大きな気づきを得ることができた。
良い教育とは、自然と触れ合うゆとりを持った授業を心掛け、子供が自力でいろいろな解決策を見つけ出すお手伝いをする。一人一人の子供の子供目線でのコミュニケーションを大切にし、時には、その子とじっくり、とことん付き合い、ぶっ倒れるほどやり抜いた後に新しい力が得られることを体験させるといった「限界越え」も体験させる。これこそがシュタイナー教育の神髄なのである。
多分、天界のマスター(守護霊ともいえるのかもしれない)は、そのように私と付き合ってくれている筈である。それゆえ、私は多くのインスピレーションを得て問題を解決できているし、きっと解決できるといった自信というか安心感すら得ているのである。
天界のマスターたちが、私にしてくれていることを、教育現場で子供たちにすれば良いのである。
つまり、安易に答えを教えることはせずに、その子のレベルでコミュニケーションをして、その子が自力で問題解決できるように導いていく。そうすることで、本当の力が身についていくのである。
そういう子は、きっと、自力で多くの壁を乗り越えて、いつかは教える教師をも超えていくに違いない。私が、教え子に学ぶということになったら素晴らしい。というのは、自分が乗り越えただけでは、まだ半分であり、それでは自己愛のレベルだからだ。他者を乗り越えさせることができてこそ、他者愛が加わり、より完成されていくのである。
ここまで話したことは、カウンセリングにも応用できることだと思う。
解決策を教えてしまうのではなく、その人が自力で問題解決できるように、その人目線でのコミュニケーションを取ることで、「気づき」へと導いていくのである。
だから、私は、どんなに答えを持っていても、答えを話すことがあってはならないのだ。その答えは、私が「気づき」よって得られたもので、あくまで私だけのもので良いのである。
人は、自分越えをするには、大変な努力が要る。さらにそれを継続して行うには、それなりの決意が必要となる。短期間にそれをなすことなど困難である。まずは、自分サイズから始めなくてならない。他人サイズでは、挫折してしまうからだ。
自分サイズから少しずつ、時間をかけてゆっくりと、そして着実に自分越えに取り組んでいくのである。
「優れた人ほど語らない」という意味が少しわかってきたような気がする。語ってしまっては教育にならないからである。
〈補足〉
例えば、ショパンの演奏法をピアノの入門者に教えようとしても伝えることはできないことと似ている。ショパンを弾けるだけの腕前を持つだけの修業をした者にしか伝えられないのである。
私は、現在のイマジネーションを得るために素地に30年。専門的な学びを約3年やっているが、そうして得たことを果たして、素地も何もできていない人に伝えられるかと言うと伝えられないように思うのである。
昨日は、紫波町のビューガーデンにて、「鳥山敏子先生を偲んで 賢治の学校との交流会」に参加した。とても有意義な学びをしたので、後日、そのことを記事に書いて紹介したいと思う。
交流会から帰ってくると、玄関前に生ごみが置いてあり、カラスに荒らされていた。母の話だと、明日が可燃ごみの日なのだが、先週もそうだったが前日にごみを出す人がいて、家がゴミ当番なので置かれたとのことだが、家の中に置かないといけないのに玄関に置いたままにしていたので酷いことになっていた。それを必死で掃除し、一段落したと思ったら、父が悶絶しているので、車に乗せて岩手医科大学工事救急センターに連れて行った。
私がいないことをいいことに、食べたいだけ食べ物を食べたようである。その結果、また胃に穴が開き、集中治療室に逆戻りとなった。家族が全面協力し、普通に食事ができるようにまで回復したのにである。裏切られたような気分だった。しかも、先週には、入院していた病院で脱走を繰り返し、強制退院させられるなど育ちの悪い生き方が完全に蘇っている感じだった。子供の頃は不良グループの番長で、喧嘩が強いことがこの人の誇りだったようだが、私は幼少からこの人のDVに随分苦しめられてきたので、教育の重要性を感じるようになったのだと思う。
救急患者が多かったため、入院できるようになるまで深夜の11時を回っていた。家に帰ったときには午前0時を回っていた。母も介護者で歩行困難。妻は仕事のことで手一杯。私が倒れたら、この家族はどうなるのだろうか。
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9月11日(金) 盛岡駅から北海道・千歳駅までの旅程の電車の中で、少々神懸かりな文章を書いてしまいました。東日本では各地で大災害をも引き起こしている激しい雨の中、自然からパワーをもらっていたような気もします。あまりにぶっとんでいる内容なので、無理して理解しようとしないでください。書いた本人も消化不良状態ですので… この場合、あくまで「わからないことは、わからない」と捉えることが重要で、科学的に実証できるテーマではないことを前提に読んで欲しいと願います。とはいえ、ご意見をいただけるとうれしく思います。
あなたは守護霊と話をしたことがあるか。と問うと、多くの人が、話したことなど無いと答えることだろう。
とはいえ、ごく普通の善良な人間ならば、運良く危険を回避したといいう経験をいくつか持っている筈である。その時、何かに守られたと感じたに違いない。
守護霊は、地上の世界の悪が全く見えないといわれている。
美肌をそして美脚を露出して歩いている女性(やがて若さを失い朽ち果てる美)は、地上では人々の目を奪って得意げなのかもしれないが、守護霊からは全く見えない存在なのである。
それゆえ守護霊は、善良な人間しか守られないのである。
性愛(性欲と見栄による愛情の伴わない愛)に狂ってしまい神を忘れてしまっているような人は、守護霊からは見えなくなっているため、事故に遭ったり、不運なことが起こりやすくなっているのである。
思い当たることのある人は幸いである。このことに気づけた人は、神を見失うことが無くなっていくので、必ず神の奇跡を体験できるようになれるからだ。
そういう経験を持つ者であっても、守護霊と話をしたことがあるかと問うと、やはり多くの場合無いと答えるのではないだろうか。
守護霊とは、死後、いわゆる天国と呼ばれている高次元な霊界での学びを終えたマスターたちなのである。
私たちが守護霊と対話をするためには、守護霊たちが働いている天上の聖なる場所との波動と自分の魂の波動を合わせることでアクセスが可能となる。
そのためには、魂の状態を極限まで清める必要がある。彼らは、善に関する内容にしか応じてくれないからである。
話を先に進める前に、人が死んだらどうなるかについて少し触れておく。
善良な人間が死ぬと、その魂は、いわゆる天国といわれる高次元の世界への入り口に導かれる。そこで、次の決意を促される。「一度、天国に参入したなら、地上でのこと一切を口にしてはいけない」と。
もし、口にしてしまうなら、その人は転生への学びに戻されることになる。といっても、善良な人間ゆえ、失敗を取り戻すための良い学びの機会を与えられることだろう。
また、もし天国にたいへん醜い女性がいて、それをけなしたとするなら、その人は天国にはいられなくなる。また、ものすごく美しい女性がいたとして、目を奪われて狂った感情を表出させてしまったなら、その人は天国にはいられなくなる。
多くの場合、天国において、地上では学べないような素晴らしい学びに感動し、地上での古い学びは次第に心を向けなくなっていくのである。
そうして、天国における学びを終えると、守護霊として働けるようになるのだ。
天国と呼ばれている高次元の世界のさらに上の世界に参入するためには、地上世界が役割を終えなくてはならないので、その時まで守護霊としての働きは続くことになる。
太陽もいつかは役割を終える日が来るわけだし、その前に地球も役割を終えることだろう。そして、この3次元宇宙にも必ず終わりがあるのである。
もし地球がダメになったとしても、広い宇宙には地球人にかなり近い高度な知能を持つ生命体が存在するので、そちらに転生できるという説もあるが、できることなら、釈迦やキリストがその教えの中で勧めている天国の参入者となる解脱の道を歩むべきなのだと思うのだ。
さて、話を守護霊との対話に戻そうと思う。
天の聖なる場所とアクセスするための家庭内に聖なる場所を持つ必要があるのだが、私の場合は寝室のベッドにしている。
その理由は、完全にリラックスできて、かつ脱魂状態になっても問題のない姿勢となると寝ている状態以外考えにくいからだ。机に座っていては、そういった状態を作ることは難しいのである。
私の場合は、音の良いオーディオシステムで、バロック音楽を掛けてから寝床に横になる。そして、おなかが上下する位に深い深呼吸をして、頭に降り注ぐ心地よい音のシャワーを浴び続ける。美しい音のシャワーに魂が清められているイメージを持つようにする。
完全にリラックスした状態になったところで、聖なる母音の詠唱をする。声帯から声を出しているという感覚ではなく、金属でできている楽器の音が鳴り響くといった感覚になるように発声を試みる。
そうしているうちに語り掛けると答えてくれる感覚が得られてくる。心の中での対話でもよいし、無意識で声を出して語り合うのでもよい。
こういった語り合いは清らかな語り合いではあるが、決して堅苦しい感じではない。むしろ最高に至福の時を得ている実感が持てることだろう。
その人の魂の方向性として、天上の美が地上の美に完全に打ち勝った状態になった時、その人は地上の誘惑に負けない者となる。
守護霊は、私たちに天国の世界については絶対に教えてはくれない。あくまで、私の話すことに対し、ヒントを与えてくれるのみなのである。それゆえ、私たちは自力で良い方向性への気づきが得られるのである。こうしていかに多くの知恵を獲得するかが解脱への道に必要なことなのである。
この世を魂を汚さずに生き抜くためには、知恵が必要である。一つや二つの知恵では無理である。十や二十でも到底無理。百や二百でもぜんぜん足りない。千や二千でもまだまだ。それ以上の知恵を獲得しなくては悪魔(サタン)との戦いに勝ち抜くことは難しいことだろう。
ここで知恵と書いたが、これは学問的な知恵ではない。守護霊から授かる霊的な知恵なのである。だから無学なものでも十分に得ることが可能なのだ。自分の生きてきたものの考え方に応じてくれるので、最も分かりやすいのである。
つまり、その人が望むのなら、すべての人に天国への道は開かれているのである。
しかし、実に多くの人はそのことに気づかずに物質的な世の中の価値観に振り回されながら転生を繰り返してしまうのである。
釈迦は転生より解脱を勧め、キリストはあえて転生には触れずに真っ直ぐに天国へ行く道を説いたのである。
どうせ天国で語ることはない訳なのだから、それまでどう生きたかということなどどうでもよいことなのである。
どんなに悪に生きようと、悔い改めるのなら、生きている限りやり直せるのである。そして、いかに良くなるための生き方をする決意を固めるかが重要なのだ。
転生する人は、一定の期間、準備のための霊界にいて、その人のカルマに応じた新たな人生を歩むために生まれ変わるのである。前世の記憶は消されているが、その人の天性の能力や癖を見れば、大体のことは浮き上がってくるものではある。
どうしてこのような無意識の傾向があるかというと、私たちの生きざまの全てがアカシックレコードに記録されているからなのである。
つまり、前世の記憶は意識上からは消されていても、無意識の中ではしっかり機能しているのである。
ということは、悪癖を直すことなく死ぬとするのなら、来世も、その悪癖で苦しむことになるのである。
守護霊との語らいの時を持つことは、この悪癖を直す最も強力な力となるのである。しかも、その先には解脱の道が開かれるのである。
もちろんここまで語ってきたことは、科学的に立証できることではない。それゆえ、「信じる」しかない。それゆえ問題なのだ。このたぐいのものは、「わからない」で処理して良いのだと思う。
ただ、科学的に説明できなくとも、実感として「信じる」を越えてしまった時、その人に力を与え、人生に多くの奇跡をもたらしてくれるのである。
だから無理に信じることはないし、「わからない」で処理して慎重に考えるべき問題なのである。
やってみてどうかということが重要であり、しっくりこないならば、それも現在のその人への導きと考えてよいのだと思うのである。もしかすると、もう少し人生を進めてからでないと実感できない問題なのかもしれないので焦ることはないのである。現在がふさわしい時なのかどうかは、簡単に判断できないことなのである。
シュタイナー教育では、子どもたちに想像的な要素を育むことを重要視している。なぜなら、想像的要素が発達させられるのなら、いかなるスランプ時においても、モチベーションを失わない方法を編み出すことができるからである。
ある人は、シュタイナー哲学を偉大なるファンタジーと言っているが、この想像力を私は心より尊敬しているのである。そして、私も、シュタイナーに習って想像の世界を育てているのである。
物理的発見も、発明も、想像力の産物である。相対性理論で有名なアインシュタインは、「もしも、光の早さで飛ぶ宇宙船があったら」というように考えて、理論の中で宇宙船を飛ばすことで物理的な発見をもたらしたのである。こういった想像力が、偉大なる先人たちが見つけられなかった真理を見いだしていくのである。
私たちは、アインシュタインのような偉大な物理学者でなくても、想像力を育てることであらゆる困難を克服できるのである。
そして、天の聖なる場所とアクセスできるのなら、「必ずなんとかなる」という自信へと繋っていき、心に平安がもたらされるのである。
心に平安がもたらされるということは、妬み僻み、不平不満というネガティブな感情に心が支配されることが無くなることを意味する。
これが天国にふさわしい者の思考回路といえるのである。
肉体的美しさがなかろうと、お金がなかろうと、学歴や、誇れる名誉を持っていなくても、人は、至福の時を得、神の奇跡に生き、真の(永遠の)美を得て、真の(永遠の)勝利者になれると… 私はそう信じている。
恵翠書院 盛岡教室
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あなたは守護霊と話をしたことがあるか。と問うと、多くの人が、話したことなど無いと答えることだろう。
とはいえ、ごく普通の善良な人間ならば、運良く危険を回避したといいう経験をいくつか持っている筈である。その時、何かに守られたと感じたに違いない。
守護霊は、地上の世界の悪が全く見えないといわれている。
美肌をそして美脚を露出して歩いている女性(やがて若さを失い朽ち果てる美)は、地上では人々の目を奪って得意げなのかもしれないが、守護霊からは全く見えない存在なのである。
それゆえ守護霊は、善良な人間しか守られないのである。
性愛(性欲と見栄による愛情の伴わない愛)に狂ってしまい神を忘れてしまっているような人は、守護霊からは見えなくなっているため、事故に遭ったり、不運なことが起こりやすくなっているのである。
思い当たることのある人は幸いである。このことに気づけた人は、神を見失うことが無くなっていくので、必ず神の奇跡を体験できるようになれるからだ。
そういう経験を持つ者であっても、守護霊と話をしたことがあるかと問うと、やはり多くの場合無いと答えるのではないだろうか。
守護霊とは、死後、いわゆる天国と呼ばれている高次元な霊界での学びを終えたマスターたちなのである。
私たちが守護霊と対話をするためには、守護霊たちが働いている天上の聖なる場所との波動と自分の魂の波動を合わせることでアクセスが可能となる。
そのためには、魂の状態を極限まで清める必要がある。彼らは、善に関する内容にしか応じてくれないからである。
話を先に進める前に、人が死んだらどうなるかについて少し触れておく。
善良な人間が死ぬと、その魂は、いわゆる天国といわれる高次元の世界への入り口に導かれる。そこで、次の決意を促される。「一度、天国に参入したなら、地上でのこと一切を口にしてはいけない」と。
もし、口にしてしまうなら、その人は転生への学びに戻されることになる。といっても、善良な人間ゆえ、失敗を取り戻すための良い学びの機会を与えられることだろう。
また、もし天国にたいへん醜い女性がいて、それをけなしたとするなら、その人は天国にはいられなくなる。また、ものすごく美しい女性がいたとして、目を奪われて狂った感情を表出させてしまったなら、その人は天国にはいられなくなる。
多くの場合、天国において、地上では学べないような素晴らしい学びに感動し、地上での古い学びは次第に心を向けなくなっていくのである。
そうして、天国における学びを終えると、守護霊として働けるようになるのだ。
天国と呼ばれている高次元の世界のさらに上の世界に参入するためには、地上世界が役割を終えなくてはならないので、その時まで守護霊としての働きは続くことになる。
太陽もいつかは役割を終える日が来るわけだし、その前に地球も役割を終えることだろう。そして、この3次元宇宙にも必ず終わりがあるのである。
もし地球がダメになったとしても、広い宇宙には地球人にかなり近い高度な知能を持つ生命体が存在するので、そちらに転生できるという説もあるが、できることなら、釈迦やキリストがその教えの中で勧めている天国の参入者となる解脱の道を歩むべきなのだと思うのだ。
さて、話を守護霊との対話に戻そうと思う。
天の聖なる場所とアクセスするための家庭内に聖なる場所を持つ必要があるのだが、私の場合は寝室のベッドにしている。
その理由は、完全にリラックスできて、かつ脱魂状態になっても問題のない姿勢となると寝ている状態以外考えにくいからだ。机に座っていては、そういった状態を作ることは難しいのである。
私の場合は、音の良いオーディオシステムで、バロック音楽を掛けてから寝床に横になる。そして、おなかが上下する位に深い深呼吸をして、頭に降り注ぐ心地よい音のシャワーを浴び続ける。美しい音のシャワーに魂が清められているイメージを持つようにする。
完全にリラックスした状態になったところで、聖なる母音の詠唱をする。声帯から声を出しているという感覚ではなく、金属でできている楽器の音が鳴り響くといった感覚になるように発声を試みる。
そうしているうちに語り掛けると答えてくれる感覚が得られてくる。心の中での対話でもよいし、無意識で声を出して語り合うのでもよい。
こういった語り合いは清らかな語り合いではあるが、決して堅苦しい感じではない。むしろ最高に至福の時を得ている実感が持てることだろう。
その人の魂の方向性として、天上の美が地上の美に完全に打ち勝った状態になった時、その人は地上の誘惑に負けない者となる。
守護霊は、私たちに天国の世界については絶対に教えてはくれない。あくまで、私の話すことに対し、ヒントを与えてくれるのみなのである。それゆえ、私たちは自力で良い方向性への気づきが得られるのである。こうしていかに多くの知恵を獲得するかが解脱への道に必要なことなのである。
この世を魂を汚さずに生き抜くためには、知恵が必要である。一つや二つの知恵では無理である。十や二十でも到底無理。百や二百でもぜんぜん足りない。千や二千でもまだまだ。それ以上の知恵を獲得しなくては悪魔(サタン)との戦いに勝ち抜くことは難しいことだろう。
ここで知恵と書いたが、これは学問的な知恵ではない。守護霊から授かる霊的な知恵なのである。だから無学なものでも十分に得ることが可能なのだ。自分の生きてきたものの考え方に応じてくれるので、最も分かりやすいのである。
つまり、その人が望むのなら、すべての人に天国への道は開かれているのである。
しかし、実に多くの人はそのことに気づかずに物質的な世の中の価値観に振り回されながら転生を繰り返してしまうのである。
釈迦は転生より解脱を勧め、キリストはあえて転生には触れずに真っ直ぐに天国へ行く道を説いたのである。
どうせ天国で語ることはない訳なのだから、それまでどう生きたかということなどどうでもよいことなのである。
どんなに悪に生きようと、悔い改めるのなら、生きている限りやり直せるのである。そして、いかに良くなるための生き方をする決意を固めるかが重要なのだ。
転生する人は、一定の期間、準備のための霊界にいて、その人のカルマに応じた新たな人生を歩むために生まれ変わるのである。前世の記憶は消されているが、その人の天性の能力や癖を見れば、大体のことは浮き上がってくるものではある。
どうしてこのような無意識の傾向があるかというと、私たちの生きざまの全てがアカシックレコードに記録されているからなのである。
つまり、前世の記憶は意識上からは消されていても、無意識の中ではしっかり機能しているのである。
ということは、悪癖を直すことなく死ぬとするのなら、来世も、その悪癖で苦しむことになるのである。
守護霊との語らいの時を持つことは、この悪癖を直す最も強力な力となるのである。しかも、その先には解脱の道が開かれるのである。
もちろんここまで語ってきたことは、科学的に立証できることではない。それゆえ、「信じる」しかない。それゆえ問題なのだ。このたぐいのものは、「わからない」で処理して良いのだと思う。
ただ、科学的に説明できなくとも、実感として「信じる」を越えてしまった時、その人に力を与え、人生に多くの奇跡をもたらしてくれるのである。
だから無理に信じることはないし、「わからない」で処理して慎重に考えるべき問題なのである。
やってみてどうかということが重要であり、しっくりこないならば、それも現在のその人への導きと考えてよいのだと思うのである。もしかすると、もう少し人生を進めてからでないと実感できない問題なのかもしれないので焦ることはないのである。現在がふさわしい時なのかどうかは、簡単に判断できないことなのである。
シュタイナー教育では、子どもたちに想像的な要素を育むことを重要視している。なぜなら、想像的要素が発達させられるのなら、いかなるスランプ時においても、モチベーションを失わない方法を編み出すことができるからである。
ある人は、シュタイナー哲学を偉大なるファンタジーと言っているが、この想像力を私は心より尊敬しているのである。そして、私も、シュタイナーに習って想像の世界を育てているのである。
物理的発見も、発明も、想像力の産物である。相対性理論で有名なアインシュタインは、「もしも、光の早さで飛ぶ宇宙船があったら」というように考えて、理論の中で宇宙船を飛ばすことで物理的な発見をもたらしたのである。こういった想像力が、偉大なる先人たちが見つけられなかった真理を見いだしていくのである。
私たちは、アインシュタインのような偉大な物理学者でなくても、想像力を育てることであらゆる困難を克服できるのである。
そして、天の聖なる場所とアクセスできるのなら、「必ずなんとかなる」という自信へと繋っていき、心に平安がもたらされるのである。
心に平安がもたらされるということは、妬み僻み、不平不満というネガティブな感情に心が支配されることが無くなることを意味する。
これが天国にふさわしい者の思考回路といえるのである。
肉体的美しさがなかろうと、お金がなかろうと、学歴や、誇れる名誉を持っていなくても、人は、至福の時を得、神の奇跡に生き、真の(永遠の)美を得て、真の(永遠の)勝利者になれると… 私はそう信じている。
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