呆れる程に美しい人がいる。でも、その人がどんなにマメにお手入れに励んでいたとしても、その美しさは、その人のものではない。その人の美しさは、ただくじに当たったようなもの。そう考えると、美しい人は私でもあり、醜い人も私なのである。最も重要なことは、神からの賜物として与えられた魂をいかに自分のものとして育てられるかなのである。肉体と違い、魂は、その人のものとみなされる。肉体は死ぬと朽ちるだけのものだが、魂の修業は死んでからも続くからだ。肉体は悪魔の誘惑を受けやすいが、魂は心が神に向いていないとレベルアップしていかない。あまりに多くの人がそのことに気付かずに、肉体にばかり心が向いている。死後、魂の修業の旅を続けられる人は少なく。多くの人は地獄の火の中に投げ入れられると聖書には記されている(同じく魂の進化について追及する輪廻転生説を信じている人と意見の分かれるところである)。キリストの贖いとは、単に救いを意味するのではない。何度でも良くなるためのチャレンジの出来ることを示している。神は、良くなろうと努力する者を愛しておられるのだ。そして、良くなるとは、神の愛を身に付ける者になるという意味なのである。
と、書いたものの、キリストの教えも一つの哲学と考えるべきであると思う。あらゆる宗教を哲学の一つと考えるのなら、私たちは豊かに学ぶことができるからだ。宗教と考えると、宗教に縛られて他の価値観を学ぶことができなくなる。自分たちだけが正しいと錯覚をしてしまう。今生きている者たちは、平和の世紀を創り出す者とならなければならない。そのためには、宗教を哲学と捉えていかなくてはならないのだ。でないと、戦争の時代は終わらないことだろう。このことで子供たちへの教育は大きく進化していくことだろう。いずれ、長い時代を経て、良い価値観は残り、間違った価値観は廃れていくことだろう。上記に書いた私の捉え方も、正しいかどうかはわからない。ただ、私にとってモチベーションになっている哲学なのである。魂の旅を続けていくために…