運命をとことん生きる | 恵翠(けいすい)書道教室

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私の父は要介護5級で、現在病院で寝たきり状態です。私の母は要介護2級で、歩くことが困難で車いす生活です。父は愛情に欠如した人でしたが、経済的に家族を助けてくれましたし、逆に母は愛情の人で、私を多方面で助けてくれました。その両親が、今は全く無力な人となってしまいました。

妻は、彼女のご両親の狂った宗教活動のために信じられないような貧乏生活を強いられ耐え抜いてきた人です。そこの部分に私は大きな可能性を感じたのですが、現実には親の躾の無さからあれもできない、これもできない状態で、私にとって当たり前にできることができず、つまりは幼子から育て直すような苦労が伴いました。彼女に期待したことはことごとく裏切られ、彼女との人生設計は、全く目途が全く立たない状態が長く続きました。しかし、彼女が勤めている職場に有り難い協力者が現れ、介護の仕事を、生きがいを持って取り組めるようになりました。

そしてここ2週間の私は、まず左足の肉離れの激痛に始まり、両腕の激しい関節痛、左足膝の手術、多分ストレスで便が堅くなったことが原因なのだと思うのですが切れ痔の手術と激痛の伴う受難続きでした。多分、今年の4月まで約2年間やってきた新聞配達による睡眠不足と過労も加わっての身体の障害なのかもしれません。ここのところ、結構ブログの記事を書いていますが、これは痛みを紛らわす効果がありました。意識を自分の事から外に向けないと、痛くてしょうがなかったからです。










さて、私の歩みの特徴は、「諦めないこと」「見捨てないこと」にあります。諦められたなら、見捨てられたならどんなに楽になれるのだろうと考えたこともありますが、それでは、先に進むのではなく、ただ振り出しに戻るだけでしかありません。運命の試練にとことん挑んでいった方が、学びが得られるのではないかと考えたわけです。

こういうときは、頑張っても、頑張っても、なかなか報われなかったキュリー夫妻の実験活動をイメージするようにしています。長期間結果を出せないために、ついに雨漏りのするような実験室に追いやられたのですが、それでも諦めなかったことが二度のノーベル賞受賞へと繋がったからです。つまり、諦めることよりも、とことんやることの方が、成果が大きいのです。

最近の成功者の考え方は、数か月やってみて結果が出なければきっぱり撤退するのだそうです。見切りを付けるタイミングが重要なのだとか。しかし、これは短期間で成功を得る人の考え方です。成功しているところだけ見ると羨ましくも思えるのですが、長い目で見ると大した成功でなかったりします。どこか一発芸人と似ているのかもしれません。一生に一回は輝いてみたい。そんな薄っぺらな成功を追い求めて何になるのでしょう。パソコンをやっていて、多くの会社の製品を使ってきたことになりますが、何とその半数近くの会社は無くなっているのです。私のような貧乏塾よりも早く無くなるなんて不思議な話です。

私にとって、「諦めないこと」「見捨てないこと」、この方向性が、真理探究に必要な資質になっていると思います。私は、どんなに新しい概念を得たとしても、古い概念を簡単には見捨てません。そうすると、新しい概念と古い概念の両面を持つ新しい概念が生み出されていくからです。そういった考え方を長く続けているせいか、生活の中で良い「気づき」を多く得られるようになってきています。

毎朝の瞑想で、多くの良い「気づき」を得られるようになったのは、見えない私の専任講師と、心の中でとことん語り合い、一見相反する二つの概念をあらゆる角度から眺めてみる作業をしているわけです。本を読む、講演を聞くという行為自体は、ただ記憶するだけの作業です。こういった日々の練習(マインド・トレーニング)は、現場での応用力にも生きるものと感じています。









いわゆる世の中で言う成功者が真の成功者であるのなら、この地球に平和はあり得ないことでしょう。それはほんの一握りの人たちによる成功だからです。そうではなく、全ての人にもたらされることのできる成功でなければ、世界に平和をもたらすことなどできないのです。自分の運命に向き合ってとことん生きることは、心掛け次第で誰にでもできることです。でも、そのことを成功とは思いにくいゆえ、間違った成功につい心が向いてしまう訳なのです。

私の母は、暴力的な父ととことん付き合ってきたと言う意味では、あっぱれな人間だと思います。私の師匠の高橋洋子先生(アニソン歌手)が、「あなたがお母さまをあまり褒めないので、私が何度でも褒めて差し上げましょう。」と言っていたことを思い出します。神が認めるのは、この世での功績などではなく、とことん運命を受け入れて生きる姿勢にあるように思えるのです。

とことん運命を受け入れて生きるということは、神が自分に与えてくれた課題に真っ向から取り組んだと言うことになります。つまり、真に学びの多い人生と言えるのではないでしょうか。これを成功と言わずに何と言うのでしょう。

ですから、間違ったこの世の成功に惑わされてはいけません。

私が子供たちに最も伝えたいことは、神に与えられた試練をことごとく受け入れる勇気を持ち、その試練に学ぶことのできる人間になることの素晴らしさについてです。そういう生き方は、他人の評価に左右されることがありません。どうしても書道のコンクールでは、良い賞や悪い賞が存在し、そういう価値観に振り回されやすい子が多いのです。

そうではなく、運命をとことん生きている自分を自分で最大限に評価できる人になって欲しいのです。これは自尊心であって自己愛などではありません。自分の心を自分で支え健やかに保てる力を持つことこそが、地球全体を包んでいるエーテル体(一人一人に平等に与えられている神の精髄であり生命力そのもののエーテル体が束になって地球全体を覆っていること)を美しく守るための立派な平和活動といえるからです。

残念ながら、地球はまだ神聖な惑星になり得てはいないのです。それどころか、不安と恐れに支配されつつあるのです。このままでは、その先どうなるのでしょう。私たちは、完全なるエーテル体(完全なる善でもある生命力)を受け取っている者なのですから、神聖な惑星に変えられる底力を十分に持っている筈です。大切なことは、一人ひとりの「気づき」にあります。子供たちへの教育においても、「集中力」にばかりに偏り過ぎたものではなく、神聖なるものへの「気づき」を促すような教育を展開していく必要があるのです。

実は数日前、私はシュタイナー教育とは少し異なるアプローチの仕方をする画期的な教育法についての素晴らしい文献を見つけました。いつか紹介できる日が来ることでしょう。




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