できない自分で勝負する方法 | 恵翠(けいすい)書道教室

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生まれてから現在までの過去があまりに酷過ぎて、生きていけない。これまで何も良いことがなかったゆえ、自分が好きになれない。そう言ってマイナス思考に陥っている人に、私は何人か出会ってきたことになる。

その中の一人は、確かに基礎力があれもこれも不足し過ぎているために、何をやってもうまくいかないで悩み苦しんでいたのだが、普段話をしている分には人から良い印象を受けるという長所があった。

「どんなに印象が良くたって、中身がないから」とその人は完全に自己否定をするのだが、悪い思い出を後生大事に背負っていても何にも良いことはないのである。悪い思い出も、できない短所のことも、思い切って捨ててしまえばいいこと。そのようなネガティブな思いを背負いながら頑張るなんて、とても不合理なこと。まず荷物を軽くしなくては、前に進む力が出てこないのは当然である。

せっかくある長所だけ見て、それを伸ばせばいいだけのこと。無い自分のことで嘆いたり、他人と比較して焦ったりするのではなく、今持っている、ありのままの自分で勝負すればいいのである。

あなたが、良い印象で人と上手くやっていくなら、必ずあなたのできないことを周りの人がやってくれるのだ。あなたの周りに、あなたを助けてくれる良い協力者が増えていくのなら、あなたは、むしろできる人よりも素晴らしい可能性を持つことができるのである。

先人たちには、生まれが悪く、学が無く、頭も悪く、健康にも恵まれないという不幸が重なったような状態にありながら、この方法で素晴らしい成功を得た人もいる。あの、パナソニックの創立者の松下幸之助もその一人である。

自分の良い点にだけ関心を持ち、そこで勝負していく。悪い点は、無理して直そうとしないこと。無理をするとするほど、自分が嫌いになってしまうからである。ありのままの自分の中に可能性を見出していくこと。

これって、とても合理的な考え方だと思うのだ。悪い自分に足を引っ張られるくらいなら、消去してしまって、良い自分にだけスポットを当てて育てていけば良いのである。これだと、一歩一歩確実に前へ前へと歩んでいける。歩んでいるうちに加速していき、確実に成功へと結びついていく。もし、成功できなかったとしても、実は成功なのだ。

ちなみに、シュタイナーが語っている神智学では(「わからない」ことはあくまで一つのイメージの段階に過ぎず、わかったつもりにならずに「わからない」で考えることが新たな進歩へと繋がる考え方である。そのことを前提に…)、死んだのち、エゴは消え去るとのことである。エゴとは、自己中心でマイナスな考え方な生き方のこと。それに対し、プラスの視点で生きて積み上げたことは、死んでも消えることなく、生まれ変わった際に蘇り生かすことの出来る能力となるとのことである。

そうなると、頑張らないで生まれっぱなしで生きた人の人生は、死後、消滅してしまうことになる。今の自分の前の人生の自分(つまり前世)に戻れたとしても、今の自分は消えて無くなるのである。この理論において、「消えてなくなりたい」という人の要望には応えられるかもしれないが、それでもその人の人生の歩みは止まらないのである。またやり直し… そんなままでは、やり直しを繰り返すだけなのである。消えてなくなることに、どれほどの意味があるのだろうか。

もしうまくいっている人が羨ましく思うのなら、この人は、前世で今の自分のように苦労をしたから今良い結果が出ていると考えればよいだけのこと。でも、そのできる人が、前世の遺産にだけしがみついて、出来ない分野での苦労を怠ったとするなら、その人の人生は、どんなに輝いているものであっても消滅してしまう運命にあるのだ。

今の自分は、消滅してしまう歩みをしているのか。蘇る(復活する)歩みをしているのか。常に自問自答しながら生きていく必要があるのではないだろうか。

どんなに成功の人生であっても、そこで命の歩みが終わるわけではないのである。高慢な気持ちになっていてよいのだろうか。残念ながら、魂の進化には苦労の方しか必要とされないのである。

そう考えると、苦労しているうちが花であることがわかることだろう。同じ苦労するのなら、苦しい顔でするのではなく、笑顔で乗り切ろうではないか。苦労とは、魂の進化にとって最も重要な部分なのである。苦労こそが、その人の生きている証しとなるもの。決して消えることのない命の輝きそのものなのである。


だから、

出来ない自分でも十分なのだ。大丈夫、頑張っていける筈である。


出来ない自分、何の取り得もないような自分であったとしても、そこには無限の可能性が眠っていることを忘れないで欲しい。

何がなんでもあきらめないこと。どんなにあきらめたくても、たとえ死んでも、何度死んでも繰り返されていく真理の法則は、あきらめることを許してはくれない。だったら、1ミリでも前に進むことを考えよう。

魂磨きをしよう! 実は、シュタイナー教育の本来の目的は、ここにあるのである。


出来ない子に光が当てられない教育など、教育とは言えないのである。ただ、親御さんの存在はとても大きく、教師が親御さんに代わることはできない。ただ、「親が無くても子は育つ」の諺ではないが、優れた教育が存在し、その子の自立心を引き出せるのなら、上記で述べたような消去法などを用いて素晴らしい可能性を引き出すことは可能となってくる。

私としてはシュタイナー教育の型にはめることなく、シュタイナー人智学の本質へと結び付けられる教育を模索している。型はあくまで、手法の一つに過ぎず、良い教育者は多くの手法を持っているべきだと考えるからだ。教育者の学習とは、尽きることのない情熱の作業なのである。

大切なのは教育現場の子どもたちの声である。子どもの願いを無視して、一方的にシュタイナーの型を子どもに押し付けてよいのだろうか。子どもに受け入れられることが前提でなくては、良い展開は生まれないと思うのだ。大切なことは、教える教師がシュタイナー人智学を理解している者であることであって、そこを前提に、一人ひとりの子どもに、それぞれ違った対応ができる応用力を持っていることではないかと思うのだ。そうなると現場の中で、新しい手法が生まれるということも出て来ることになるだろう。

誰よりもシュタイナーを学びながらも、誰よりもシュタイナーを壊していけたなら、シュタイナーが望む「芸術的な教育」を展開できるのではないだろうか。




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