今日の話題なのだが、真理というものは何一つ書いてはいない。あくまで真理の入り口に到達するためのヒントのひとつになるだろうことを書いたに過ぎないのである。とはいえ、私がこれまで生きてきて、20年以上真理探究を続けてきたことで、ようやく辿り着いた一つの結論でもある。
真理とは、高い次元に到達(アクセス)し、高い次元に存在する教師から学ぶものなのである。
しかも、そこで学んだことは、一切他言できないのである。
そうすることで、この世には真理が存在しておらず、真理を雄弁に語るものは皆偽りであるとするためなのである。
つまり、対面できる教師から真理を学ぶことは決してできないのである。もちろん書物を通して学ぶことすらできないのだ。
あくまで、長い期間の修行を経て、高い次元に到達(アクセス)できるようになり、高い次元に存在する教師から学ぶしか方法はないのである。
そうなるとシュタイナーの著作は、仮にすべて読み切ったとしても、真理には出会うことはできないということになる。
どうやらシュタイナーの意図は、著作を通して真理を伝えることではなくて、著作を通して真理の入り口に到達するための秘儀(技法)を伝えようとしたものではないだろうか。
シュタイナーの著作には、理解に苦しむ内容が少なくない。現実に存在する現象によって確かめることのできない事柄は、信じるしかないため、あくまで「わからない」で処理しなくてはならない内容な筈である。この「わからない」ことで、どちらが正しいなどと論争して何になろうか。そういう議論をシュタイナーは決して望んでいないのである。残念なことだが、シュタイナーを研究している人たちの多くは、学習者を「ねばならない」という価値観で縛るのである。
そこに真理が書かれていないのに、まるで真理が書かれているかのように絶対視してよいものだろうか。シュタイナーの膨大な量の方法論を分析し、その中から自分に合うものはどれか。または、悩んでいる一人の子どもにふさわしいものはどれか。と、チョイスするための情報と受け止めるのも良いのではないだろうか。対面する人の性格に合った情報を考え、その人が魂の進化への道に入っていきやすくしてあげるのである。
本来、教育は、一人ひとり異なるべきものであり、スタンダードな教育法があったとしても、例外も重要なのだ。その例外に対処する為、教師は多くの手法を学ぶ必要があり、終わりなき学習活動をしなくてはならないのだ。私は、その例外に挑む時、生き甲斐を感じるのである。とはいえ、最高の教育とは、高い次元へ繋がるものでなくてはならない。
最高の教育を目指しながらも理解に苦しむシュタイナーの著作が導こうとしている真理とは…
とにかく、それを確かめるには、高い次元に到達するしかないのである。
しかも高い次元に到達した者は、生身の人間と対面するのではなく、高い次元に存在する教師と語り合うのだ。真理を知り、さらなる高みへと到達していく。その高い次元にしか真理は存在しないのである。この境地に達するために人は修行をし、魂を進化させていくのである。
一生をかけてその境地に到達できなかったとしても、失望することはない。人は、何度も生まれ変わって、進化していくからである。今世で到達できなくても、いつかは必ず到達できる。そういった希望があるのである。そういった希望は、現世に多くの素晴らしい実りをもたらすのである。つまり、素晴らしい人生が開かれてくるのである。
シュタイナー教育は、そういう世界の存在を伝える教育なのであり、素晴らしい人生を開く鍵を得るための教育なのである。そのことを伝えることができなければ意味をなさないのである。
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