シュタイナー学習会 ~ 神の御名 | 恵翠(けいすい)書道教室

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シュタイナー学習会


一昨日、私は下記にあるシュタイナー学習会に参加した。

とき  9月28日(日) 午後13:30~17:00
ところ 紫波町オガールプラザ 2階 小スタジオ
参加費 2,000円 (テキスト「シュタイナー教育入門」 1,512円含む)
          テキストをお持ちのかたは500円(会場費、お茶代)
主催者 特定非営利活動法人 ポラーノの広場 代表 瀬川正子


内容 ①13:30~15:00  鳥山敏子制作DVD 〈賢治の学校 宮賢治の教え子たち その5「稲作挿話」〉 上映会
   ②15:15~17:00  「シュタイナー教育入門」学習会 指導:菊池澄子先生
    オイリュトミー(渦巻き)&フォルメン(渦巻き)
    テキスト:『アルマ・シュミット先生講義録 シュタイナー教育入門 鳥山雅代訳』


宮沢賢治の保存会の方々で、紫波町の名士の板垣寛さんや菅原得之さんも参加してくださっていて、貴重な意見交換もでき、有意義な時間だった。

オイリュトミーは、机と椅子を片付けワークスペースを作って行った。フォルメンは、シュトックマー社(ドイツ)の太いクレヨンを用いていた。
テキストは、小型版で薄くカラー印刷で、独習用というより教科書として講座として学ぶのに適しているものと感じられた。今回は、第1‐7年期(0~7歳)を席順に読んでもらい、意見交換をした。

「植物のようにゆっくりと成長すること」「強制、禁止を子どもに押し付けない」というキーワードが出てきたのだが、ある若い女性から、「成績を付けないのにどうして子供が頑張れるのか疑問を感じる」といった意見が出た。

私は手を挙げて、エポックノートが、シュタイナー教育を受けている子どもたちの頑張りの源となっていることを説明した。

これが不思議なことで、妻が遠藤孝夫岩手大学教授からお借りして見た〈~自由の種をまく~ 子安美知子・フミ シュタイナーとの25年(1996年 NHK)〉の印象が忘れてしまった潜在意識の世界から意識下へと降りてきた感じだった。とても忙しい時に見たため、ほとんど忘れてしまっていたのだが、こういう時に降りて来るとは何ともありがたい。発言しながら、現在、当塾で長年やってきた「今月のベストテン」「年間ベストテン」に代わる評価の方法を見つけてしまったことにもなる。来年の1月から、ぜひ実行したいものである…

「エポックノート」これこそが、子どもたちを幸せな人生に導く強力なお守りになるに違いない。そう確信したのである。



~今日は、もう一つ記事を書きました。新聞配達中に心に飛び込んできた内容です。~


神の御名


強力なパワーを得るためには二種類の方法があると考えられる。一つは、神からパワーを受ける方法。もう一つは、悪魔からパワーを受ける方法である。

神からパワーを受けるためには、犠牲と償いが求められる。これは、ネガティブな意味の犠牲ではなく、無私の奉仕とでも言うべきなのだろう。償いとは、清らかな心でなければ神のパワーが下りてこないわけで、悪魔的な方向性を排除していくことを意味する。このことで人々に生命力を与えるパワーを与えられ、成功へと導かれるのである。

悪魔からパワーを受けるためには、生贄が求められる。これは、人々を踏み台にして得られる成功と言うべきなのだろう。例えば、リストラをすることで会社を立て直すことも悪魔からパワーを得るためのシステムの一つと言えるのかもしれない。フランコ・ゼッフィレッリ監督の映画〈ブラザー・サン・シスター・ムーン〉では、豪商でもあるフランシスコ(アッシジの聖フランシスコ)の父が、体中染料まみれになって働く一見奴隷のような労働者を多く抱えている様子が描かれていた。この労働者たちを踏み台にした豊かさに、フランシスコは疑問を感じ、神の愛に生きる決意をするのだった。岩手の生んだ童話作家で詩人の宮沢賢治も、この境遇にとても似ていると思う。共に、誰かを傷つけ苦しめなくては得られない栄光に嫌気が差したのである。

さて、ここで重要なことは、神であれ悪魔であれ、祈り求めるときには、具体的に神もしくは悪魔の名前を唱えることが重要なのである。神なら、例えばイエス・キリストとか、釈迦とか、天照大神などのお名前を指す。天照大神は実在しない人物に思えるが、長い歴史の中でこの神に関わる聖者を多く生んできたことを考慮するとパワーの存在であると言ってよいのだと思う。悪魔の名前ならばなら、ルシファーやベルゼブブ、バフォメットなどが挙げられる。

名前に依らない祈りは、大きなパワーが得られにくいのである。ある時は神から恵みを得られたと思うと、ある時は悪魔からと、ふらふらしているのである。

神の御名で祈る際は、聖書に書いてある「思いを尽くし、心を尽くして、あなたがたの主である神を愛せよ」という神の律法に従う者でなくてはならない。ここでいう神を愛するとは、全てのことに感謝するという意味である。全てのことに感謝するということは、命を与えられていることに感謝し、与えられている全ての恵みに感謝をし、今日一日の全ての出来事が神の導きと受け止めることである。そう考えると、不平不満の心や、妬み僻みの心は湧き上がらない筈なのである。その明るい心が、成功へと導いてくれるのである。

さて、このことを知っているのなら、悪魔による成功の図式が理解できているので、単に成功を羨むことはなくなるのである。

この世というか、この地上世界には修行のために悪魔が付きものといえるのだが、それゆえ悪魔を極端に敵視してはいけないのである。確かに、近年、悪魔が牙をむいている感じが否めないが、悪魔の強さと同じだけの愛が求められているのである。

インターネットが発達している昨今、何らかの形で、悪魔の正体を知ることもあるだろう。しかし、恐れおののいたり、大騒ぎしたりしてはならないのである。まして悪魔を滅ぼそうと考えることは、ミイラ取りがミイラになるようなもので意味が無いのである。神が望んでいる対処法ではない。悪には愛で対抗するのが神の側の人間のあるべき姿勢なのである。

だから、私は悪に戦いを挑まないのである。この地上では、悪と共存して生きていかなければならないことが宿命でもあるからだ。悪魔との良い付き合い方とは、心に愛を持ち続けることにある。悪魔さえも愛の対象なのである。

ここでいう愛とは、全ての命を大切に思う気持ちである。人間だけでなく、動物たちも、大自然も慈しむ気持ちなのである。

私は、愛されることにあまりに不足感が大きかったため、暴飲暴食に走ってしまったのである。つまらないジャンクフードを食べまくって肥満体となってしまった。反省すべきことは、このように食べ物に当たるということは、食べ物に対する感謝の気持ちに不足していることであり、つまりは命へのの畏敬の気持ちに不足していたということになるのである。

この不足感を乗り越えるためには、穴だらけになってしまった自分の心に愛をひたすら詰め込むしかないのである。もちろん、ひたすら人を愛したとしても、誰もが良い方向で捉えてくれるとは限らない、逆に仇で返すような人も少なくないのである。そうなると、新たにできてしまった心の穴にも、さらに愛を詰め込んでいかなくてはならない。つまり、ひたすら愛に生きなくてはならなくなってくる。このことこそが、神からパワーを得ている実感を得るための確実な方法ではないかと思うのである。

悪魔からパワーを得て成功している人は少なくない。私は、そういった人たちも愛すべき人と考えている。そういった人たちに助けられることも少なくないだろう。ただ、神の側で生きる姿勢だけは生涯ブレずに貫き通したいと思う。





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