性同一性障害を考える | 恵翠(けいすい)書道教室

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まことに残念なことに聖書では、男娼を罪と定めている。私は、そのような者ではないが、本当に罪人にしてしまっていいのか疑問を感じているのである。

私は、心霊体験が多く、体験的に悪霊の存在を知っているが、同様に、体験的にイエス・キリスト様が現在も生きて働いていらっしゃることを知っている。事象と、聖書の御言葉と完全に一致しているからである(これは聖書主義的な考え方から来ているが、聖書を外した場合は、「わからない」と呼ぶべきこととなる)。

ピーター・ジョセフ(Peter Joseph)による自主製作映画『ツァイトガイスト』(Zeitgeist, the Movie 2007年)によると、キリスト不在説に信憑性を感じられるものだし、さらにシュロモー・ザンド(Shlomo Sand)の意欲的論文作品の『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』(THE INVENTION OF THE JEWISH PEOPLE 2010年)を読むと、イスラエル人の歴史は捏造された歴史であり、本来実在しなかった歴史の上に成り立っている歴史とも考えられる。そうなってくるとキリスト不在説はさらに決定的かとさえ思ってしまう。

とはいえ、キリスト教には二千年という歴史の重みがあり、それゆえキリストの教えに忠実に生きた素晴らしき先輩たちが守護霊団を形成していて、あたかもキリスト様が働いているように私たちを守っていてくれているのかと、苦し紛れに考えてみたこともある。

新約聖書は、キリスト様の教えに基づいているとはいえ、処女(聖母マリア)のままでの懐妊に始まり、キリスト様の数々の奇跡等、自然科学上有り得ない神格化した表現となっている。最近では、そういった自然科学の法則を逸脱した記事は引き算して考えることにしている。

私の魂が揺さぶられたのは、三位一体にも見られるキリスト様の理解に難しい神性ではなく、唯一の掟に関するもの、つまりは「神の愛」についての教えなのである。神の子ではなく、最高の先生としてキリスト様を師と仰ぐことで納得ができているのである。もちろん、これはあくまで個人の信仰であって、カトリック教会においては、皆と同じカトリック信仰を分かち合っている。そこは使い分けねばならぬ。

私は、キリスト様は確かに実在したが、その歩みは聖書の記事と若干異なっていたと認識している。霊感で感じることを大切にしているのである。しかし、そう認識したとしても、その崇高な教えの価値を全く落とすことはないのである。むしろ神性を外した方が、最高の師としてのその地位が上がるとさえ思えてならない。

そういう視点もなければ、物理学が目に見えない世界の中に数々の情報を見いだしている昨今、聖書の教えは色あせていくような気がしてならないのだ。

それゆえに、聖書の中で、霊感的におかしいと感じられるところは、外して考えるようにしている。その方が、真実の教えが浮き上がってくるからだ。天文学のコペルニクスやガリレオの説は、当時の教会に激しく否定され迫害まで受けたが、結局のところ教会の説の方が間違っていた。時折、聖書や教会の教えを外して考えてみなくては、真実を見失ってしまう恐れがあるのだ。

キリストの教えに最も熱心だった娼婦マグダラのマリアの回心の件だってある。男娼だからといって安易に罪に定めるべきではないと思えてならないのだ。障害者を罪人に定めるようなことはあってはならない。ただ大切なことは、性の執着を超えた高い次元に真理が隠されているため、性の執着を離れて考えるチャンネルを持つべきではないかという点にある。チャンネルなので、TPOに合わせて切り替えることが出来る筈である。

一般的に、異性を愛することは正常で、同性を愛することは異常と受け止められているが、性の執着という視点で見れば同じ次元のお話なのである。一方は子供が出来て家族ができるから神から祝福されており、一方は出来ないから神から祝福されていない。そのような考え方は差別的であり間違っている。正常な夫婦でも子供ができないことだってあるからだ。


私たちがこの世に生を受けたのは、こういった執着を超えた高い次元にある真理を自らの力で見いだし、魂を進化させていくことにあるのではないだろうか。


聖書の中に隠されたヒントを基に、自然科学の中に隠された真実を見いだし、体験的に得た強い信仰心により、さらに上の次元を自らの力で切り開いていける。これが人間の持つ素晴らしき可能性なのである。

これは私なりの結論なのだが、性同一性障害者は決して罪人ではなく、私たちと同じ魂を進化させるべき尊い命を持った存在なのである。だから、神から与えられた大切な命を最後まで生き抜いて欲しいと願うのだ。自信を持って歩んで欲しいのだ。特に自殺ほど魂の進化を退化させることはないからである。

もし、子どもたちの中にその傾向のある子がいても決して差別を受けぬよう、そして自信を失わせぬよう、子どもたちに尋ねられたらいつでも説明できるように、頭を整理しておこうと思ったのである。




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