先週から中休みの時間を利用して、原作:芥川龍之介・監修:木下恵介のビデオクリップ〈蜘蛛の糸〉の鑑賞会を行っている。これは道徳教育の一環として行っているものである。
思い起こせば、私が仏教系の保育園に通っていたころ、紙芝居で見たのが〈蜘蛛の糸〉だった。この紙芝居を見た衝撃が、後に真理を追究する方向性へと発展していたのだと思うのだ。そればかりでなく、自分以外の人間の命について認識するための目を開いてくれたものでもあったと思うのだ。
おおむね、こんな内容である。
悪事を働いていたカンダタは、当然のように地獄へ行き、地獄で、責め苦を味わった。そんなカンダタも一つぐらいは、よいことをした。クモを助けた。そこで、お釈迦様は、カンダタを助けてやろうと思った。お釈迦様は、地獄にいたカンダタたちに、くもの糸をたらした。が、地獄から、カンダタの後に、つづいてきた者たちを追い払おうとカンダダは糸を切って自分だけが助かろうとした。しかしその後、カンダダの糸までも切れてしまい、カンダタは地獄へ逆戻りしてしまった。
子どもたちの反応はいろいろだった。多くの者は、自分だけが助かろうとしたカンダダの醜い心が蜘蛛の糸が切れた原因だと話していた。地獄には行きたくないから、悪いことはしたくないと言った子もいた。また、何人かの子は、衝撃が大きすぎたのか、何も語れなくなってしまった。
たった一人、中学生の男子で、こんなことを言った者がいた。
「一番悪いのはお釈迦様だ。初めからカンダダを救う気などなく、目に余る罪人の彼を痛めつけようとしたに過ぎない。お釈迦様の心こそ残酷だと思う。本当に酷い話だ。」
彼は、普段から神は絶対にいないと確信し、国語教育の教材の中に神が登場してくると、毎度のように茶化すことを言うのである。今回もやっぱりそうだった。
この子は、たいへん勉強のできる子で、お習字でも、当塾でトップクラスの成績を残している。その他、多方面で優秀さを示している子なのである。お習字では、大きな賞を取りたいと、作品提出の締切が近くなると、朝9時から夕方の6時ごろまで、ぶっ通して書いていくこともある。私たちにとっては、はなはだ迷惑なのだが、毎年良い結果を残してきているため許してきたのである。
残念ながら、今のままでは、彼には世界平和を作り出す人にはなれないのである。
人類が、5000年以上も掛けて取り組んできた宗教の流れを、いかに現代が、科学の発達した世の中であるとはいえ、その長い長い歴史の重みを感じることなく、一方的に否定することができるとは何者なのだろうか。
その長い長い歴史の中で、宗教の理想を真面目に生きて自分を高めてきた人たちを茶化すことができるとは何者なのだろうか。
この歴史の重みを感じられぬ者に平和を作り出すことはできないのである。
その男子生徒には、世界にどれだけの宗教が存在し、どれだけの数の人が信じているか。しかも、何代前から受け継がれているか。ここのところをないがしろにして、世界平和は語れないということを伝えていきたいと考えている。
どの宗教が正しいか、どの宗教が間違っているかというような不確かな問題ではなく、それぞれの国の文化として根ざしている宗教を理解することなく、世界の平和は語れないことを知って欲しいのである。
神はいないと断言することは、大変な早とちりであると思う。
分からないことは、分からないと考えるのならば、ニュートラルな立ち位置なので科学の進歩につながっていくことだろう。
しかし、分からないままの状態なのに、「いない」と決めつけてしまうことは、「いる」と決めつける以上に問題である。
なぜなら、「いる」と考えるならば、仮に間違っていたとしても、真面目に生きて自分を高めることができるが、「いない」では、自分を律する価値観に乏しいので、自分勝手な生き方になりやすいからだ。
彼は家庭環境に恵まれていて、多方面に「できる人」になっているのだが、その高慢な心が打ち砕かれた時に、何を心の支えにしていくのだろうか。
幸い多くの子どもたちは、〈蜘蛛の糸〉を素直に受け取っているようである。この子どもたちが、良心をさらに育て、世界平和のために働く素晴らしい人材へと育って欲しいと願うばかりである。
最近、私は体の調子が悪く、自分はいつ死ぬのかと考えるようになった。そこでふと思い出されたことは、私が32歳頃だったと思う。キリスト教の信仰について熱く語り合った無二の親友が、ある日突然に、自動車事故でこの世を去ってしまったのだ。
彼は、30歳まで生きられなかった。私より年下だったが、年上に感じられるほど人間のできたヤツだった。結婚が直前に迫っていたのに… 事故の前日、私は彼とお互いの夢について熱く語り合っていた。だから、彼の死について、長いこと受け入れることができなかったのである。
そうなると、私がここまで生きてこられたのは《当然ではない》ように思えるのだ。自分の力だけで、ここまでは生きてこられたとは考えられないのだ。自分以外の守りがあってこそ、ここまで生きてこられたようにすら感じられるのだ。すでに終わっていたかもしれない命を運よく得られているわけなので、この命を大切に、亡くなった無二の友人の分までも、世の中のために役立てなければならないと思うのだ。
こう考えられるのも、保育園時代に見た〈蜘蛛の糸〉があってこそのような気がしてならない。だから、どうしても子どもたちに伝えたかったのである。
P.S.
9日(火曜日)のシュタイナー読書会での菊池澄子先生の話では、「一番悪いのはお釈迦様だ」と言った男子生徒については、別におかしくないとの意見だった。
皆と違った見方ができることは、むしろ良いと見るべきではないのかというのである。確かに、彼は、想定外の感想を述べることが多く、私も学ばされることが少なくなかった。少々、生意気な生徒ではあるのだけれど…
「健全な考え」とか、「健康的な考え」ということにこだわらず、発明的な個性は、もっと評価して良いのではないかということだった。
あとは、その子が人生の中で、苦しい体験や悲しい体験を乗り越えることで、「健全な考え」や「健康的な考え」の値打ちを自ら実感していった時に、さらに大きな成長に繋がっていくのではないだろうか。むしろ、「お釈迦様が悪い」と言った分だけ、神聖なものの価値を誰よりも深く見いだす可能性が感じられると言うのである。
ただ、そのためにも、苦しい体験や悲しい体験を乗り越えるための、知恵のようなものに時折触れさせるようにしたらどうかとも意見を述べられていた。
私は、模範解答にこだわらずに、もっと自由な視点で教育を考えていこうと思うようになった。
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