人が宗教を求める理由 | 恵翠(けいすい)書道教室

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〈人が宗教を求める図式〉


労働 → 搾取 → 自信喪失

宗教 → 連帯 → 生き甲斐(自信回復)


多数派の人は、労働により搾取されている。「こんなに働いたのにこれっぽっち」という収入に、自信を喪失してしまう現実を生きている。

宗教では、連帯感が重要なポイントとなっている。信者同士というよりは、自信を喪失している者同士で励まし合い、教団のために行動を共にすることが出来るのである。このことにより、新たな生き甲斐が生じ、自信喪失の状態から救われることができるのである。そして、人間としての自信を回復していくのである。「救われた」とは、このような状態のことなのである。

安土桃山時代に、キリスト教が年貢を搾取されかつ文盲の農民たちから熱狂的な支持を得たのは、そこにあったと思う。ただ、その後、豊臣秀吉によるバテレン追放令や、徳川幕府のキリシタン弾圧によって、クリスチャンの根付かない国へとなっていったのである。

それはともかく、多くの宗教現場の現状は、宗教上の知識は基本的なもので十分であり、真理を探究する必要も、専門的な研究をする必要も無いのである。極端に言えば、教えそのものよりも連帯による活動の方が重要なのである。

この図式を考えると、安易に宗教を批判できなくなってくるのである。テロとは無縁の平和的な宗教である限り、多少のことには目をつぶってよいと思うのだ。でないと、宗教に依存しなくてもよい少数の優越者が、宗教に依存する多数の搾取されている労働者を見下げる行為の図式となってしまうからだ。

その証拠に、私が経験的に感じていることとして、「宗教を信じない」と豪語する子供の親は、優越者的立場であることが多いからだ。

搾取される側に生きていても、子どもの頃に優越者的立場の親の教育を受けたケースでは、宗教批判をし続ける傾向がある。この場合、宗教批判をするために宗教者とやたら接触したがり、宗教者たちに迷惑を掛けることに生き甲斐を見いだすのだが、そこに出入りできなくなってしまうと精神障害に陥ってしまうというケースも、私は経験的に多く見てきた。

また、これは大人のケースなのだが、ある人が「僕は、宗教なんぞ絶対信じない」と言いながら、政治(選挙)のボランティア活動を通して連帯感を得て、生き甲斐(自信回復)を得ているのである。そうなると、基本的には宗教と同じ路線と言えるように思えてならないのである。

ただ、この場合、政治は宗教ではないので、一見、真理研究するには良い立ち位置のように思えるのだが、「絶対信じない」という先入観があまりに強いため、真理探究には向かないのである。真理探究には柔軟な学習姿勢が必要となってくるからである。

シュタイナーは、宗教ではなく、真理に基づく学問である。とはいえ、決して宗教を批判していない。仏教の輪廻転生の考え方は真理の一部とみなしているし、またキリスト教の愛の教えは、崇高な次元と繋がるものとして重要視さえしているのである。

前にも話したが、宗教は、神の教えゆえ、教祖が唱えた御言葉を訂正したり、付け加えるようなことは決してできない。それゆえ「絶対的知識」というのである。シュタイナーの確立した人智学では、新しい真理の発見により間違いが見つかれば訂正ができ、新たに付け加えることもできる。それゆえ「相対的知識」という。ただ科学と若干異なる点は、まだ科学では解明されていない超越した事柄を、時代に先駆けて取り扱っている点にあるのだ。

私は現在、搾取される側の人間でもある。

私としては、シュタイナー教育に生かすべく人智学の探求を続けていくことはもちろんのこと、カトリック信者として、共同体を大切にクリスチャンの道を歩んでいきたいと思う。つまり、絶対的知識と相対的知識の両面を併せ持ち、バランスのある人間を目指していきたいと思うのである。

受け持った子どもたちには、搾取される側の人間にはなって欲しくない。世の中のルールを決める側の、つまりは世の中を良くしていける人になっていって欲しいのだ。

宗教生活に束縛されるのではなく、広く読書を楽しみ、自ら真理を得られる人になって欲しいのである。

それゆえ、子どもたちの能力を最大限に引き出し、さらには本人でも驚いてしまうような素晴らしき未知の能力までも引き出していけるような教育を展開したいと思うのである。




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