私の幼い頃の父は、手が器用なことと喧嘩が強いことが自慢であり、暴力的な傾向の強い人だった。毎夜のように、酒場を飲み歩き、喧嘩をしては血染めの服で帰ってきたことも少なくなかった。
そういう父なので、父から私の苦手な食べ物を無理やり口に入れられて、摂食障害となり、いきなり海に投げ込まれ水恐怖症。いきなりチャグチャグ馬っこの馬に乗せられ動物恐怖症。いきなり速いボールを投げられて顔で受けボール恐怖症。いきなりたくさんのチョウチョの入った虫かごの中からチョウチョを顔に押し当てられ羽虫恐怖症。などなど、まるでトラウマのデパート状態となり、自閉症ぎみな子どもとなってしまったのである。しかも父は、教えたことを一回でできないと、「不器用なやつは俺の子ではない。くたばっちまえ」と暴言を吐き見捨てられてしまうのだった。父は、現在に至るまで、私の努力を茶化すことがあっても、何一つ褒めてくれることはなかった。というより、自分以外のことに関心がないようである。
誰とも話ができず、いじめられっ子であったのに、近所の親御さんたちは、「潤ちゃんと遊ぶと馬鹿になるから遊んではダメ」と自分の子に言い聞かせる声が無残にも私の耳に入る。町内の花壇が荒らされると、「潤ちゃんがやったに違いない」から、「潤ちゃんがやった」となってしまい。私は、無実の罪で大勢の人たちの前で誤まらなくてはならず、父の悪い評判のお蔭で、酷い目にばかり合う少年時代だった。
そんな私が、ぐれることなく育つことが出来たのは、一重に読書のお蔭と言っても過言ではない。
暴力的な父に苦労の毎日の母は、喘息をはじめ、多くの病に苦しむようになり、私は小学校に入学する前のことを思い出そうとすると、病院のベンチの風景しか思い浮かばないほど、母に連れられ病院に通う毎日だった。
その当時、自宅に本の行商のおじさんが売りに来てくれたので、私は母に本をねだり、母は病院のベンチで待たせている間に読ませるのに都合が良いと買ってくれた。行商のおじさんも、また私にピッタリの本を選んで持ってきてくれた。その際読んだ本が、伝記の『野口英世』、『ワシントン』、『リンカーン』、『ナイチンゲール』、『キュリー夫人』、『エジソン』、『ノーベル』、『ベートーベン』、『ゴッホ』、『イエス・キリスト』などであった。保育園が仏教系だったので(時宗 教浄寺・善友保育園)、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』などの仏教教育の紙芝居にも生涯忘れられない感動を覚えた。また、伝記以外にも優れた物語を多数読んだ。
今思うと、そのおじさんは、私の大恩人なのである。私が二十歳以降のことにはなるが、音楽的な才能を発揮できるようになったのは、この頃に、そのおじさんから購入した「子ども音楽館」のレコード鑑賞の賜物なのである。
母が病院の近くに、古本屋さんを見つけてからは、母は急にそのおじさんをそっけない口調で断るようになった。大人って嫌らしいなと思った。そのおじさんが大好きだったからである。その後、母は、来るたびに楽しい話を聞かせてくれて、風船やかえるのおもちゃをくれた大好きだった行商の薬屋さんまでも私から遠ざけた。安く買える店を他に見つけたからである。私が、安物になびかず、人情を第一に考える傾向があるのは、その悲しい体験に基づいているのだと思う。
こういった読書体験が私の心の財産となり、小学生以降、受けたいじめに耐え抜く力となっていったのである。
中学校では、なんと担任が、数人の生徒を手下にして、私をいじめたのである。担任の不正を私が見つけて指摘したのが原因だった。教科書に落書きをされる。宝物でもある本に落書きをされる。ノートを墨で読めなくされる。自転車を自転車置き場の屋根に乗っけられる、学生カバンを2回の屋根の上に放り投げられる。合唱コンクール用に愛用していた大切な指揮棒を無残に折られる。5人以上の生徒から体育館の体操マットで簀巻きにされてボコボコに蹴られる… この担任は、高校入試の願書を書いてくれなかったため、私は母の伝でかろうじて私立の高校に入学できたのだった。母の伝がなければ、私は高校に入ることすらできなかったのである。
10年後の同窓会で、いじめた主犯格の一人が、私に涙ながらに謝ってくれた。もちろん、私は彼の勇気に感動して許してあげた。彼は第一志望の盛岡第一高等学校に合格したのだが、長いこと良心の呵責に苛まれていたという。どうやら、彼も被害者の一人だったのだ。しかし、肝心の担任は、同窓会に出席しなかった。
このいじめにも私は全く屈することはなかった。私の心のヒーローたちは、こんないじめに負けることは決してないと思えたからだ。
経済的理由と、能力的スランプからオペラ歌手への道を断念し、盛岡に帰省してからは、音楽活動を一時封印して、コンクリート2次製品を製造する工場で働いた。泥まみれ、埃まみれ、油まみれ、慢性的筋肉痛に怪我と火傷は日常茶飯事。夏は蒸気の熱がサウナのように熱く、冬は直接吹き込んでくる雫石川からの寒気にガタガタ凍え、広い面積の雪かきもしなくてはならないキツイ仕事だった。
そんな過酷な職場で、はじめの頃、最も辛くのしかかってきたことは、休憩時間に、私の父と同様に暴力的な傾向の強いリーダーから受ける侮辱の言葉だった。それは、30歳を過ぎても、結婚をしていない私を笑いものにするものだった。私は、ほぼ全員がやっているパチンコや競馬に行くことを拒み、タバコを吸わないことで、変な人間だと思われていた。そのリーダーからは、ほぼ毎日、容赦なく暴言を浴びせられた。
私は、そういう時には決まって、もしキリスト様が今ここにいたら、いじめる人たちと私とでは、どちらに祝福を与えてくださるだろうかと考えてみた。間違いなく、しかも自信を持って「自分の勝ち」だと思えたので、耐えることができたのである。
しかし、私と同様に30歳を過ぎても独身の男性社員は、いじめに耐え切れず、病院の精神科に通うようになったのだけど、リーダーから、「お前は、皆より毎週1日多く休めていい気なもんだな」と、以前よりも暴言を浴びせられる始末だった。誰もが、元暴走族でヤクザでもあったリーダーを恐れていたのである。彼は、励ます私をも避けるようになっていった。いじめに難なく耐えている私が異質な存在と思ったのかもしれない。
私は、その職場で、約5年間。知的障害者の職場実習の教官を務め、労働組合の書記を務めた後、退職までの2年間、そのリーダーから引き継がれて委員長となり、職場のリーダー的存在となっていったのである。アイディア教育法を編み出し、職場実習で受け持った14人の園生全員を就職へと導いた。実は、私の教育への情熱はこの頃に開眼したのかもしれない。その会社は倒産してしまったが、私は会社側から一方的にたたきつけられた能力給制度にストップをかけ、何度かわずかながらもベースアップを勝ち取ったのである。もし会社が、政治的な裏工作に頼りきるのではなく、現場の声を大切に真面目に品質向上と新製品の開発に取り組んだのなら、倒産することがなかったと思えてならない。結局、同業者の中で生き残ったのは、真面目に品質向上に取り組み、箱物行政等の大口ばかりではなく、一般消費者向けの商品も大切のした優良会社だったからである。
私は、自分自身のそういった体験から、子どもたちに読書する習慣を身に付けさせようと取り組んでいる。
人は生まれてくる親は選べないが、読書によって、自分自信を励ます言葉、つまりは心の応援団を得ることができるのである。私は、これほど頼もしい心の財産は他にないとさえ思うのである。
最近の子どもたちは、あまり本を読まない。読んだとしても、娯楽的な傾向なもので、真面目な作品を好まない。ゲームやテレビに膨大な時間を奪われている子どももいる。これでは、心が強くならないのである。良書を通して、自分の壁を乗り越える体験を多くの子どもたちに味あわせたいものである。
シュタイナー教育では、低学年の子に読書課題を与えることを奨励してはいない。この場合、教師が読み聞かせをするべきなのである。中学年以降は、大いに読書をさせるべきなので、この準備段階に、子供の興味を大いにふくらませるようにしたいものだと思う。
恵翠書院 盛岡教室
恵翠書院 滝沢教室