先週は、父が心不全の疑いがあり、3日連続、検査のために病院に付き添わなくてはならず、新聞配達後の睡眠時間を取ることができなかった。腰の骨を折ったことで寝たきり生活が続いている母は、怪我から1ヵ月が経過した先週から、簡易トイレを手配し、看護師さんの他に理学療法士さんに来てもらいなららリハビリをすることとなった。ところが、わがままが酷くなり。食べ物に対する注文の他、電話で要らぬ問題を起こしてくれたので、本当に夫婦ともに振り回され、ことごとく睡眠時間を失った。
父にも母にも、心に神が存在していないようで、死を怖がり、病気の症状に異常なほどに騒ぎ立てる。老醜をさらさないためにも、「死の心得」は若い時から学んでおく必要があると強く感じるようになった。
そういうこともあり、今回はブログの記事を書く準備ができず、いま頭に浮かんだことを書くだけで精一杯なことをご了承願いたい。
私の母は、子どもの頃、私が味の素のマヨネーズが食べたいとせがんでも、キューピーのマヨネーズを買い続けた。グリコのカレーが安く売っていたのでそれを食べたいとせがんでも、ハウスの印度カレーを買い続けた。
このように、子供の願いを踏みつぶすことで日頃のうっぷんを晴らそうとする親がいる。
妻の母親は、5年ほど前は、運転免許を何で取らないのかとあんなに非難していたのに、いざ運転免許を取るというと、「あなたは私と同じ因縁をもっていて大事故を起こすからダメ」と猛反対に転じている。ここでも子の願いを踏みつぶそうとする親の姿が見られる。この方も、子供の言うことに従わずに、逆のことをしようとする性質があるようだ。
母親は、父親が自分の思うように動いてくれないと、弱い立場の子供に対して、親の力を行使して、子供の願いを踏みにじることで、自分の物質的欲望を果たそうとする性質があるようだ。
何で物質的と言うかというかと言うと、ごはんを食べることは、生きるために必要な欲求だが、テレビのコマーシャル等を見たり、他者が食べているのを見て、どうしても食べたいという欲求が生まれ、それを抑えきれずに何がなんでも食べたいという衝動に駆られて手に入れるとなると、これは物質的欲求なのである。前者は、単に自然の摂理なのだが、後者は自然とは異なる物欲的欲求と区別することができる。
物質的欲望は、死後、何の役にも立たない。真理探究をすることで身についた高い霊性は、死後、大いに役立つのである。学歴も社会的地位も、物質的欲望といえるものでしかないが、それを得るために努力し、そこで身についた心の強さ等は、高い霊性なのである。微妙なのだが、完全に区別されるものである。
教育の現場にいて、このように物質的な欲望に駆られているタイプの親をよく見かける。親は子供にとって、一つの十字架となっていると感じている。
残念ながら、相手に話して聞かせて分かったような返事がきたとしても、ほとんど理解できないのである。特に大人は精神性が固まってしまっているので順応性に欠けている。頑張って話しただけ、あとで裏切られたような思いがして腹が立つのが関の山。伝わらない人には伝わらないものである。こういうことに時間を掛ける意味は、ほとんどないように思える。
そうなると、被害を最小限に留めるために、「いかに、かわすか」が問題となる。
相手の要求を否定せず、快く受け入れた振りをして、無視するのである。「はい」と言って、しなければいいのである。変な話だが、受け入れた振りをしただけで、相手の欲求は満足するようで、おとなしくなるのである。子ども時代にはそれができなかったが、現在はそれができるのである。
笑顔で、優しく「はい」と言うこと。これが、言うことの聞かない相手に魔法をかける秘訣なのである。
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