最近のこと、私が東京で声楽を学んでいた時代、四谷のイグナチオ教会でのペトロ・ネメシェギ神父のご説教をふと思い出した。
あるご婦人が、人間的に尊敬できない、生理的に受け付けられない、という神父様がいて、その人から、御聖体(御ミサで司祭から渡される聖なるパン)を受けることができないから教会に行けなくなったと相談を受けたのだという。
ネメシェギ神父さまは、そのご婦人に次の聖句を示したという。
それは、ルカによる福音書の24章13節からの部分なのですが、十字架上で亡くなられて三日目のこと、死から復活されたイエス様が、エマオで二人の弟子に現れた時、お姿が変わっていたこともあり、二人は一緒に話しながら歩いているお方がイエス様とは分からなかった。
そこで二人の弟子は、自分たちの先生が亡くなってしまったことを嘆いていたが、その旅人の話に惹きつけられてしまい、一緒に宿に泊まることを願った。
イエスは、宿を共にすることになり、食事の際、賛美の祈りを唱え、パンを割いて二人に渡した。そのしぐさを見て、二人は、その旅人がイエスであることに気づいたのだった。気づいた瞬間、その旅人(イエス様)の姿が見えなくなったという話である。
「つまり、パンを割くしぐさの中にイエス様を見出したというところが重要なのです。ミサで司祭(神父)が御聖体を渡すその瞬間が、イエス様を見出すことのできる大切な瞬間なのです。彼方は、神父様に会うためにミサに出席されるのですか、それともイエス様に会うためにミサに出席されるのですか。その神父様がどんなに彼方の嫌いなタイプの神父様であったとしても、パンを渡す瞬間に、その神父様とは異なるイエス様の手がそこにあるのです。」
その話を聞いた後に、そのご婦人は、嫌がらずにミサに通うようになったとのことだった。
今日の話題は、実はキリスト教の話をするつもりではくて、児童の登校拒否の話題である。
前の話にあるクリスチャンのご婦人ではないが、学校の先生が嫌いなので学校に行きたくないと学校を休んでしまう児童に、私はこれまで数例出会っている。
この場合、親御さんが、「そんなわがまま言わないで、頑張って学校に行きなさい」とでも言ってくれるならともかく、「あんな酷い先生の授業は無理して受けなくてもいい」と親の了承で子どもが学校を休んでしまうケースなのである。
子供さんの評判の悪い先生は、親御さんからも評判が悪いものである。
だからといって、度々学校を休んでしまうと、頭の良いお子さんでも、学校の勉強は遅れてしまうし、何よりお友達とのコミュニケーション能力も遅れてしまうのである。そしてついには登校拒否に発展していくのである。学校は勉強をするだけの場所ではなく、ご家庭や塾では身につけられない団体行動として教育が展開されているのである。そこのところを見落としてはいけないのだ。
先生に会いに行くのではなく、大好きなお友達に会いに行けばいいのである。学校は先生に会いに行く所ではなく、勉強しに行く所。勉強を休まないことが偉いことで、学校に住んでいる勉強の神様に褒めてもらいに行く所。休んだら勉強の神様に嫌われて、勉強ができなくなってしまう。だから、頑張って通わなくてはならないのだ。
私も中学時代に、なんとも担任の先生がらみのいじめに会ったことがある。担任の不正をごまかそうとしたことを正そうとしたことから担任の憎しみを買い、その担任は生徒たちを使って、私をいじめるようになったのだ。
私はそれでも学校を休むことはしなかった。辛い辛い毎日ではあったが、ひたすら耐え忍んだ。あまりに酷いいじめだったので、心の健康のために、ここでは具体的にあれこれ書かないことにする。ネガティブな思いが噴出しかねないからだ。
しかし、高校に進学すると、環境が変わり、人間関係が変わり、次第に悪い人間と触れ合ってもとばっちりを受けない術を身につけていった。
実はそれでも、いじめられる体験は続いた。やはり、私の側にも問題があったのだと思う。しかし、そこをリベンジする度に人付き合いが上手になり、心が強くなっていったのである。
大切なことは、現実から逃げないことである。
DVで悩まされたといって離婚したある女性が、優しい人を見つけたと再婚したところ、その彼がリストラされたことでDVになり、それでまた離婚をし、今度は将来性のある素敵な男性を見つけたと再々婚したところ、その彼が重い病気となり、精神が病んでDVとなってしまいまた離婚をしてしまった。彼女は、相手にばかり求め、自分を変える努力においては消極的だった。
奥さんに病気で先立たれ、その後2度結婚をするもが、やはり奥さんに病気で先立たたれてしまったという男性もいる。彼は、自分を変えようとしない頑固さがあった。
このように、逃れようとしても逃れられない運命が人間にはあるような気がする。
だから、逃げてはいけない。
決して、逃げてはいけない。
逆に運命をしっかりと受け止めて、自分い与えられた課題をしっかりと取り組んでいくのなら、人生が好転していくようにも感じられる。
良い教育とは、問題を起こさない教育ではない。問題を起こすということは、むしろ重要なことであり、問題の中から、その子の人生の課題を見出してあげて、その子が自分の壁を自力で克服できるように良い援助をしてあげることにあると思うのだ。
そう考えると、教育の現場とは決して平和な場所とはいえない。ある意味、戦場なのかもしれない。平和に仕事をしたいという人には教育現場は向かないと思う。
いや、ご家庭も一つの教育現場であると考えるのなら、人間に生まれた限り、平和に甘んじていてはいけないのかもしれない。
平和という言葉に逃げないで欲しい。平和とは、進化した人間の魂が行き着く先であって、この世(物質界)を生きる私たちは、ひたすら修行に生きなくてはならぬのだ。
親御さんにも、お子さんと一緒に戦って欲しい。戦い続けて欲しいと思う。
子どもたちが、ミサでの「キリスト様の御手」のような、学校に住む勉強の神様とも違う、といって宗教でも物語でもない、真理そのものからくる"神聖な何か"を見出してくれるのなら、そしてそれを感じさせる教育こそが、シュタイナー教育の根本にあるものなのだと思うのである。日々の生活の中に、神聖なるものを見出すセンスを身につけた子が、周りに左右されない、心の安定した、「自己一致」のできる高い精神性を養っていけるのである。
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