いじめの問題 | 恵翠(けいすい)書道教室

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シュタイナーの教えだと、人はまだ数千年進化し続けなくてはならないことになる。つまり、まだまだ生まれ変わって修行しなくてはならないのだ。進化する魂には、転生の周期がすぐにやってくるが、逆に退化する魂には、転生の周期はかなり長くなるようである。

もちろん、輪廻転生という考え方は、あくまで仮説であり、「わからないこと」として慎重に考えるべきではある。真理を見出すための重要なチャンネルの一つではあるが、まだ確実な知識にまでは昇格していないと私は受け止めている。

私は、聖書の言葉にあるように、生まれ持った身体の障害は、前世の因果として存在するのではなく、神の栄光を示すために、つまりは「神はいる」という証を築くために存在していると考えている。

それで行くと、容姿の悪い者、身体に障害のある者こそが、神に選ばれし者となってくる。

美貌というのは、単にくじに当たったようなもの。どんなに容姿に恵まれようと、良い環境に生まれようとも、死んで次の人生は、過酷なものになるかもしれないのである。そう考えると、恵まれた状態に甘んじることなく、自らを鍛えあげて、いかなる過酷な試練にも耐えうる魂を築く必要があるのではないだろうか。

ある意味、美人に生まれたり、裕福な家庭に生まれるということは、残念な人生になりかねないのである。美人に生まれても、色気に走らずにマザー・テレサのように、人々への奉仕の道に生きるとか、裕福に生まれても、すべての財産を手放して裸一貫から歩み直そうとしたアッシジの聖フランシスコのように、あえて乞食のような者となって真理の道を歩むといった姿勢が大事なのだ。

美人を鼻にかけたり、金持ちであることを自慢しているようでは、退化の人生を歩むしかないのである。

この世に命を与えられている理由とは、魂の進化のためであって、決して楽しみを得るためではない。

ということを前提に話を進めることにする。



子供のいじめの問題であるが、多くの場合、容姿に欠点のある子や、貧しい服装をしているような子がいじめに会いやすい。そうでなくてもバカ真面目な気質の子もいじめられやすいようである。

いじめている側は、さほど悪気はなく、テレビで見たお笑い芸人の真似をしていたりする。

それが優れたユーモアなら良いのだが、人の欠点を笑いにしているような下品なネタには呆れるしかない。大人なら、ストレス解消として受け止められるような内容でも、経験がまだまだ浅い子供には消化しきれていないため、何も考えずにクラスのお友達に同じように再現しようと試みるのである。そこで相手のお友達の心が傷つくことなど、まるで考慮していないのだ。

こういったテレビの影響を考えるとき、テレビは子どもの魂の進化を妨げる恐ろしい存在であると考えるしかない。特に民放は、企業のコマーシャルが付きものなため、物質欲を煽り立てるものとなる。持っている子同士がつるんで、持っていない子をいじめたりもする。いじめられたくないから、物を欲しがるというような現象が出てくるのである。

テレビで得られる知識よりも、テレビによって失うものの方が大きいような気がする。

やめていった子どもたちの中に、一日5・6時間もテレビを見ているという子がいた。勉強時間はと聞くと30分足らずなそうである。それは、仕事帰りのお父さんとお母さんが、ダラダラテレビを見ていることに原因があるようだった。子供同士のいざこざを仲直りさせるための指導も何度も試みた。それはそれで子供の良い面を引き出すことで成功したのだけれど、結局はまた繰り返すのである。残念なことではあるが、塾の教師の指導は決定打にはなり得ないようである。

こういう家族関係が表面化してきたお子さんは、他のお子さんに悪影響を及ぼすのでやめてもらうことにしている。どんなに塾で礼儀作法を教えても、家に帰ると、汚い言葉や無礼な態度に戻ってしまうのでは身につかないからである。

塾教育といっても、親御さんの協力が大変重要なのである。それゆえ、親御さんとの連携を大切にしていきたいと考えている。




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