ギリシャの哲人プラトン(B.C.427-347)の書いた『パイドン』には、次のような一節がある。これは、紀元前399年、ソクラテスの死刑執行当日に、ソクラテスが仲間たちに対話を展開した様子の一部でもある。
「ところが、思うに、もし生まれるまえに知識を得て、生まれるときにそれを失ってしまい、あとになって感覚を用いて、これらのものについて以前にもっていたあの知識をとりもどすのであれば、われわれが学ぶということは、もともと自分のものであった知識を再把握することなのではないか。そしてこれを、想起と呼んで正しいのではないか」
これは、前世の存在について書いたものだと思うのだが、ほとんどの人は、「そんなの知らない」「わからない」と言って当然である。
そこで、前世の存在の証明について、野生の動物たちで考えるとわかり易いかもしれない。
英国諸島、マン島のミズナギドリは、自分たちのひな鳥をあとに残して旅立ってしまうため、ひな鳥は自力で飛行を習得し、さらにはどこに向かったか分からぬ筈の親鳥を追って、ブラジルまでの膨大な距離を旅をする習性を持っているという。
このミズナギドリは、前世も、そのまた前世も、ミズナギドリだったとする。そうなると前世について「思い出す」という作業はたやすく出来ると考えられる。
シマウマは、生まれてすぐ立ち上がることができる。この本能的習性も、「思い出す」という作業とはいえないだろうか。
ネコは生まれて「ニャー」と鳴くが、「ワン」と吠えることはない。前世も、そのまた前世もネコだったなら、「思い出す」鳴き声は「ニャー」だからだ。
植物も同様に、植物を代々繰り返しているのである。動物と同様に、生まれては死ぬ存在だからだ。
ただ人間となると話は別だ、赤ちゃんの泣き声にはたいして意外性は無いにしても、自然を生きる動物たちのように決まりきった一生を再現するわけではない。前世に当たる時代時代で、文化のレベルが大きく異なり、使用言語も異なる。仮に、日本人だけ繰り返したとしても、動物たちのような決まりきった生き方にはならないのである。
ただ、「思い出す」という作業は存在していて、そのことが人間の才能に繋がっている。ある人は、一度耳にしただけで、すぐに同じピアノ演奏を、しかも正確に再現できるが、ある人は、同じ曲を楽譜を見ながら毎日3時間、1週間練習したてもその曲が演奏できなかったりする。では、その天才ピアニストが、何事にもとても頭がいい人かというと、ピアノには長けてしても、他のことには疎かったりするのだ。
そうなると、その天才ピアニストは、前世の「思い出す」という作業によってピアノを弾いているとは考えられないだろうか。
このことで言うなら、自殺をした人は、次の人生でも自殺を「思い出す」ゆえに、自殺をしやすいということになる。
「自然の法則は、投げやりに生きることを認めない」
今世では頑張って、自殺を克服しなくてはならないのである。
私はクリスチャンなので、前世という考え方に大いに抵抗があった。しかし、抵抗を持つということが、限界を持つということに最近気づくようになった。とはいえ、私が今日まで前抜きに生きてこられたのは、キリスト教のお蔭であり、現在でも素晴らしい教えにまったく変わりない。
ルドルフ・シュタイナー(1861-1925 現在のクロアチア出身の神秘思想家、哲学博士)によるシュタイナー教育は、なんと3000年後の人類を見据えたものであるという。
では、3000年後の未来人はどんな信仰生活を送っているかとイメージしてみたいと思う。
私のイメージでは、3000年後の世界には宗教という概念が無くなっていて、それゆえ民族意識も無くなっていて、世界が一つになっているのである。人が一切立ち入ってはいけない自然保護地域が広がり、人々は、個人の家を持たずに、集合住宅のようなところに住んでいる。もちろんマイカーなどはなく、クリーンなエネルギーで動く乗り物が人や荷物を運んでいる。地球は完全に自然の輝きを取り戻しているのである。自然の叡智を享受できる能力を持つ若者たちは、見た目で人を判断しないので、自分のカルマ(この頃には、生命の連鎖について解明されている)の克服と今世での使命を考慮して結婚相手を選ぶ。神秘学に基づく高度な教育が展開されていて、そのことにより自己一致できている人たちは実に理性的な生活をしていて、人口問題も見事に克服しているのである。死のメカニズムも解明されていて、死を恐れる者は誰一人いなくなる。死は喜びを持って受け入れられるものとなり、カルマの克服にならない自殺をする者はいなくなる。
神秘学とは、自然の法則を解明する学問といえるのだが、例えば、太陽の周りを周る衛星は、それぞれ規則正しく動いている。気まぐれで動くことはない。人間の体内にも、小宇宙が存在し、細胞の働きにおいては、宇宙同様に規則正しい動きが認められる。眠っていてる時にも、呼吸や心臓の鼓動が止まることがなく、精神の影響はあるものの、自然の働きには、素晴らしい秩序が存在しているのである。
こう書いたところで、自分が生きている現在地を見失ってはいけない。
現在地で、宗教は必要ないものかというと、そうではない。自然の法則が、宗教に取って代わるには、まだまだ解明されていることに不足しすぎているからだ。つまり、現在を生きる人を前向きに生きさせるために宗教はまだまだ必要だといえるのだ。
そう考えたら、神の教えである「絶対的知識」のキリスト教と、間違ったら訂正でき、新しく発見されたらなら加えることのできる「相対的知識」といえる真理探究の間のギャップが埋まったように思う。
とにかく、「わからないことは、わからない」で考える。
この視点さえ失わなければ、真理探究は素晴らしいものとなるのだと思う。
私は、塾の子どもたちに、真理について語ることが多い。子どもたちが、真理に興味を持ち、高い視点で物事を考える人になって欲しいからだ。もちろん、ひとりひとり異なった家庭環境を持つわけなので、必要なフォローを忘れないようにしている。
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