この記事は6573文字です。(読破予想時間:約15分39秒)
今日は、ちょっとした僕の思い出話です。
内定していた就職もギリギリまで悩んだ挙げ句辞めて、音楽で生きていく事を目指そうと社会に出て間もなく、まだ、プロダクションとの契約や音源のリリースも一度も経験していない、徐々に音楽での収入が増え始めた20代の頃の話です。
これは、僕が、昔々、二度と戻るつもりなく出て行った大阪へ、のっぴきならない事情で舞い戻る事になって、大阪で一から音楽活動を始めてしばらくしてからの話だ。
それまでは、京都を中心に音楽活動をしていたのだが、大阪へ舞い戻る事になって、同じ音楽の世界だと思っていたものが、同じ関西でも大阪と京都では随分と事情もノリも雰囲気も違って、何かと勝手が違って、その違いによく戸惑ったものだ。
1990年代に差し掛かろうとしていた80年代末期のその時代、他所の地域では、ほとんで見かけなくなったヘビメタが、大阪ではやたらたくさんはびこっていたのが、まず、最初に気付いた大阪ならではの特徴だ。
特に夜中のファミレスはどこに行っても、必ずと言っていい程、何組かのヘビーメタルバンドの連中が客として居座っていて、ドリンクバーで長時間粘っていたものだ。
徐々に大阪で顔が広くなると、深夜のファミレスに行くと誰かしらメタルの知り合いといつも会うと言う状況だった程だ。
◇影が薄いバンドマンの話
その頃僕は、京都で組んでいたバンドをそのまま続けていたので、京都を中心としたバンド活動と、大阪に拠点を移したソロ活動で、2つの地域を行ったり来たりしながら、音楽活動をしなければならない状況だった。
◇電撃憂歌作戦
その上、バイトもこなさなければならないので、けっこうハードな日々を送っていた。
そうこうしている内に、大阪でのソロ活動では、徐々に収入が入る様になり、イベント会社や個人のイベンターなど様々な所から仕事が入ってきていたのだが、やってた事と言えば、けっこう多岐に渡る。
あまり説明も受けないままに、プールサイドでドラムを叩いたり、小さなライブハウスの様な場所で、何のライブイベントか分からないイベントで同じくドラムを叩かされたりと、よく分からない演奏をちょくちょく請け負ってたのだが、未だに、あれは何だったんだろう?とその仕事の正体は分からないままだ。
うまく説明は出来ないが、何だか、不思議な空間に放り込まれたと言う印象だったので、やたらと覚えていたりするのだ。
あとは、外人バンドばかりが出演するライブハウスがあって、ニューヨークからやってきた黒人バンドのベースが来れなかったので、その代役を数ヶ月間頼まれると言う仕事を引き受けた事もある。
某大手のお笑い系専門の会社が、音楽界に進出してきたのもこの頃で、そこから仕事を貰ったりもしていた。
その中でも、僕が最もたくさん仕事を貰ってた会社があるのだが、その会社から貰った仕事が、今までで最もキツかったライブ、ワースト3の内二つを占めている。
ワースト3の内の一つは、先程のリンク記事『電撃憂歌作戦』の文中で書いた、プロの洗礼を受けてコケたライブだ。
これは、普通のライブ活動の普通のブッキングでの話なので、誰のせいでもない、ただただ、コケまくっただけの忘れられない普通のブラックメモリーだ。
ワースト3の残りの二つはその会社から貰った仕事で、今日の本題になる話である。
一つ目は、ライブハウスではなく、クラブでもなく、ライブバーとでも言うのか、一日に短いステージが数回、インターバルを置いて繰り返されると言う形式のバーでの演奏なのだが、そこでは、お客の数に関係なくタイムスケジュールに従って、時間がくればまたステージに上がると言う繰り返しなのだ。
僕は、これまでにライブを聴きにきたと言うお客さんの前でしか、演奏をした事はない。
しかし、この店は、ライブが主な目的で来ているお客さん達ではない。
この店でのライブは、この店のお客さんにとっては、酒を呑む為の雰囲気作りや演出でしかないのだ。
確かにストリートライブなども演奏を聴きにきた訳ではない人達が観客になる訳だが、もともと人通りがある程度出来ている事を見越した上でやるのがストリートなので、それなりの演奏が始まれば、お客さん予備軍はたくさんいるので、それなりに観客は集まる。
しかし、この店は、ライブを観に来ていると言うよりは、ライブをBGM代わりに、酒を呑む事を目的に来てる場所と言う感じだ。
しかも、平日の早い時間のバーなんて、お客さんなんてほとんど入っていない事もある。
そんな平日、店が開店してしばらく経ったがお客さんは、まばらに合計で3人しかいない。
何故か一人で飲んでる女性と、カップルが一組いるだけだ。
そんな中でライブを始める事になった訳だが、僕は今までにここまで少ない観客を相手に歌うのは初めての経験だ。
しかも、僕がステージで準備を始めても、特に、ステージ上を意識しているお客さんはいない。
こんなにやりにくい空気は、初めてだ。
始めようにも、カップルは、二人で楽しそうに何やらおしゃべりをしている。
どうにも始めにくい空気だ。
例によって、仕事の内容を訊いても、キチンと説明して貰えていないので、この雰囲気に合う曲など一曲も用意していない。
仕事の内容をいつもキチンと説明してくれないのは、いつも決まってこの会社だ。
他からの仕事で、そんな曖昧な仕事が来る事はまずない。
どんな曲を用意すればいいのか尋ねた時に返って来た返事は「ビアガーデンみたいなもんだから、何か適当に盛り上がる曲用意しといて。15分くらいのステージを何回かやって貰うだけだから」と言うものだった。
しかし、当日連れて来られた場所は、店内が薄暗い、雰囲気のある静かなバーだ。
雰囲気で言うと、ビアガーデンからは程遠く、寧ろ、真逆の空気感だ。
こっちは、景気よく盛り上がる、明るくうるさい曲を中心に用意してきたので、ちょっと悩む。
唯一、静かな「UNDER THE BOARDWALK」と言う、ザ・ドリフターズの名曲があったので、取り敢えず、曲順を変えて最初にその曲から入ってみる事にした。
そして、演奏が始まって間もなく、一人で呑んでいた女性客が席を立ったのが見えた。
これには、少し精神的にダメージを食らう。
しかし、気にしない様に、必死に歌と演奏に集中しようと試みる。
そして、店内に、カップルと僕だけの空間が生まれる。
これはマジでやりにくい。
しかし、そのカップルがとてもマナーのいい人達で、話の途中で話をやめて、僕の歌う「UNDER THE BOARDWALK」に聴き入ってくれて、小さな拍手もくれた。
確かに、暖かいものを感じて嬉しいものもあるのだが、カップルの二人と僕の三人だけのこの空間の気まずさと言ったら、もう、筆舌に尽くし難い事この上ない。
何とか、静かな雰囲気に合わせて唯一静かなレパからのスタートだったのだが、それが、余計に流れを悪くしてしまって、どうにも次へ繋がりそうにない。
でも、もう、その後は、覚悟を決めて持ちレパをやるしかないとやってみたのだが、そのカップルは、その次のやかましい曲にも小さな手拍子アクションをしながら聴いてくれた。
それも本当に嬉しかったのだが、人のいいカップルが故に、何だか、そのカップルの時間を僕が奪っている様な気さえしてくるではないか。
そんな気まずさの中、1ステージ目を何とか終えた。
しかし、その内にお客さんは増え、凄く騒がしくなって、その後のステージは喧噪の中のただのBGMと成り果てていたが、まあ、あの少人数を前に歌う事はいい経験になった。
そして、また同じ会社からの依頼だったのだが、これもまたキチンとした説明が貰えてないままのライブとなったのだ。
とにかくその会社の担当から聞いていたのは、「お客さんは、年寄りと子供だけだから」と言う事だけである。
どんな曲を用意すればいいのか尋ねても「演歌とか童謡でいいんじゃない?」ってな調子だ。
どんな会場かも分からないし、どんな雰囲気かも分からない。
とにかく、聞いていた演奏時間分の演歌と童謡を用意するだけして、当日、訪れた先は、何だか公民館の様で、まるで市役所の様な佇まいの雰囲気がする建物で、何と、その建物の上から「皆見つかさ、来たる!」とか何とか、そんな大きな垂れ幕がかかっているのである。
誰が見ても、「これ誰やねん!」って感じの垂れ幕である。
中に入ると分かったのだが、何かの交通遺児会のイベントである事が分かったのだ。
受付けで、僕が名乗ると「○○さん(←仕事を僕にくれた会社の名前)にお願いしてた、歌手の方、来られてるよー!」と受付のおばさんが担当の方を呼んでくれた。
どうやら、あの会社は、歌手の手配をお願いされてた様だ。
厳密に言うと、僕達の様な歌い手は、歌手とはちょっとカテゴリーが違うのだが、きっと、手近で間に合わせたのだろう。
僕が思うに、交通遺児会の方は、演歌歌手か歌のお兄さん的な歌手か何かを希望していたのだろう。
確かに、僕は演歌も嫌いではないし、ちょっとした余興であの会社の人達の前で演歌を歌った事もある。
そして、オリジナルの童謡も作ったりしていたのも事実だ。
しかし、僕は、本職の演歌歌手ではないし、歌のお兄さんでもないと言うのに、こんな適当な人材の手配があっていいものなのだろうか。
何だか、こっちが主催者さんに申し訳ない気持ちになってくる。
そして、いきなり、連れていかれたのは、まるで視聴覚教室の様な雰囲気の、カーテンも何も完全オープンな状態のとても明るい部屋なのだ。
しかも、部屋に並べられたパイプ椅子には、既にお客さんらしき、お年寄りと小さな子供達が座っている。
部屋に案内をしてくれた主催者側の担当の方は、少し年配の方で、とても気さくな感じの人だ。
その方にいろいろ訊いてみたのだが、リハなどはなくぶっつけ本番らしい。
これは、何となく既に察しはついている。
そして、窓に暗幕はないのかだとか、照明はないのかだとか、PAについても尋ねてみたのだが、暗幕はなく、明るい部屋で天井の蛍光灯を点けたままで、ピンスポなどの照明は一切ナシだと言う。
そして、ブームスタンドとマイクがあると言っていたのだが、何と、PAのオペレーターはいないと言う。
僕を手配した会社曰く、「今日行く歌手の人は、音響も自分でするから」と言っていたらしいのだ。
流石に、これには絶句した。
この担当の年配のおじさんは、ライブだとか音響だとか照明だとかは全くの素人の様で、この事態の異常さには全くピンときていない。
これは、仕方がない。
この場にいる人間に悪意のある人間はおらず、全員が被害者だ。
その意識で、考えられる限りの段取りで、PAを組んでマイクを2本繋いで、そのおじさんに本番が始まったら、ステージにマイクスタンドを上げてもらう様にお願いをしておく。
僕は、ステージに上がる前に、ミキサーの音をさっきチェックしたポイントまであげて急いでステージに上がるしかない。
それで、ハウリングでもおこそうものなら、もう、お手上げだ。
しかし、PAは案外、ぐずらずに素直に音が出てくれたので、その点はラッキーだったと思う。
こんな時のアコースティックギターの音の拾い方にはコツがある。
細かくイコライジングなどのチェックが出来ない時は、絶対にマイクをギターのサウンドホールに向けてはダメだ。
サウンドホールで音を拾うと、ほぼ確実にハウリングをおこす。
ハウらせない為には、サウンドホールからすこし外して、ネックとホールの間くらいの位置を拾う様にすれば、ぼぼハウる事はない。
ボーカルマイクの調子も案外悪くない。
そんな感じでライブを始めようとしたのだが、弁当を広げて子供と食べているお年寄りもいるし、ほとんどの子供は、好き勝手にお喋りをしていたり、泣いている子もいる。
誰も、こっちには注目していない。
しかも、この何の照明もない普通の視聴覚教室の様な空間での雰囲気作りのやりにくさ。
そして、お年寄りと子供達の関係性も全く分からないので、MCの内容も絞りにくい。
そんな中で、第一声を発したのだが、子供達は誰一人こっちに注目はしてくれない。
しかし、お年寄りのみなさんは流石で、僕くらいの孫がいてもおかしくはない様な年齢の方がたくさんいらっしゃって、お年寄り達の物凄く優しく見守ってくれる様な視線が一気にステージに注がれたのが分かる。
それは、凄く嬉しいのだが、やはり場は物凄く混沌としているのだ。
それでも、頑張って童謡を歌ったり演歌を歌ったりしたのだが、お年寄りの優しい手拍子と子供達の話し声や泣き声の中、照明も何もないその部屋は、とてもじゃないけど、ライブ空間と呼べるものは欠片も構築されないままに最後を迎える事になったのだ。
これは、流石に落ち込んだ。
そして、照明の大切さを身に染みて理解させられた。
これもいい経験になったのは確かだ。
けど、その分半端なく凹む。
担当のおじさんと少し話しをしたのだが、おじさんは慰めなのか「どさ回りはいつもしてるの?どさ回りしてると大変な事もいろいろあるやろなぁ〜」などと色々、理解を示そうとしてくれている。
この年代の人達は、どさ回りや流しと言うものが普通にあった時代の人達なのだ。
今回のこのイベントについては、僕の中では、「どさまわり」と言うよりも、当時、漫才師や演歌歌手がよくやる「営業」と言うニュアンスの方が近い様に感じていたのだが、何だかどさ回りと言う言葉がやたらインパクトがあって、未だに、その会話が頭に残っている。
この話を後日、僕のライブを見た事がある元保育士の友達に話したのだが、彼女に言わせると、子供を注目させるには、大人を相手にライブをしている普段の僕のMCのトーンでは絶対にダメなのだそうだ。
彼女が言うには、大人相手にやれば「バカにしてんのか!」って言われそうなくらい高い位置から声を出して「はーい!みなさーん!ちゅーもくー!!!」ってな調子で、身振り手振りも全身を使って、オーバーアクション過ぎるくらいにやらないとダメなんだそうだ。
それは、保育士さんの間では、常識中の常識で基本中の基本なのだそうだ。
もう二度とあんなシチュエーションでやる事はなさそうだが、何だかとても勉強になった。
これは覚えておこうと思って、未だに、きっちり覚えている。
あのいい加減な会社は、2年程前に倒産したと聞いている。
あのスタッフ達がどうなったのかは知らない。
あの会社から貰う仕事はいつも、仕事内容に関係なく、何故かギャラが1万円きっかりだった。
実際の依頼料がいくらなのか、どれだけ間を抜いているかなどは全く分からなかったが、けっこう、他所より安かったので、まぁ、かなり僕の取り分は少なかったのだろうと予測は出来る。
でも、一番たくさん仕事をくれてたのも事実で、感謝の気持ちもあるし、特に恨みなんてものはない。
他所から貰った仕事では経験出来ない様な、現場でのサプライズとハプニングが本当に多い会社だったので、今となっては、いい思い出をたくさん貰ったなと思えるのだ。
そして、何となく後から思うのは、あの会社と揉めずにどんな仕事でも引き受けていたミュージシャンって、そんなにはいなかったのではないかと言う事だ。
そう言う意味では、僕は、いい様に使われてたのだな、とは思う。
ま、今となってはどうでもいい事だが。
そんな僕の思い出話、いかがでしたか?
何だか、歴史の語り部や、子供達にいろんな昔話をしてあげる村の長老みたいな気分で語ってしまいましたが、村の子供達の様に「それからどうしたの?」と目を輝かせて、続きを読み進めて貰える様な話になっていたのなら嬉しいです。
この時代には、いろいろな経験をしたので、また、思い出した時には、書こうかなって思います。
てか、2つの話を1つの記事にしたのは、詰め込み過ぎたか!?
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
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