ランスへの旅
オルレアン開城後、ジャンヌを伴ったフランス軍は容易にランスへ行けたのだろうと安易に考えていたのでしたが、フランスの北側はなおイングランドの支配下にあったのであり行く先々の町には親英派のフランス人も少なからず居たのだし、抵抗を退け交渉をしながらの旅だった。そこで少しランスまでの旅の様子を見てみよう。
1429年6月も終わろうとする頃、15000人の兵を集めジアンからフランス軍はジャンヌを伴い行進を開始した。ロワール流域からブルゴーニュへ抜けシャンパーニュ地方に向かった。途中の町や村の教会に立ち寄り、戦闘で疲れた身を励ましながら進んだ。
6月30日、最初の都市オーセールは城門を閉ざしていた。守備隊の軽微な抵抗があったが、三日かけて交渉が行われ、オーセール市は食料を供給することを受け入れた。オーセール市はトロワ、シャロン、ランスなど他の都市と同じ行動をとるという誓約をした。
トロワ市は1420年5月21日、シャルル7世の王位継承権を排除した「トロワ条約」が締結された因縁の地であり、ランス攻略に向けての要地でもあった。
トロワ市の守備隊は強力だったが、市内の意見は抗戦か降伏かで割れていた。7月5日、フランス軍がトロワ市近郊まで近づくと、トロワ市とフランス軍との間で開城か否かの交渉がもたれた。
フランス側でも食料は不足気味であり、引き続きトロワ市の守備隊は強力だったため、文官を中心にジアンに引き返すべきとする意見も強かった。
しかし、紛糾する軍議の場に乗り込んできたジャンヌ・ダルクはトロワ包囲の継続を唱えたという。
ジャンヌ・ダルクは軍旗を持って堀に沿って国王の部隊を展開させると、兵たちに堀を埋めるため薪の束を作らせ、堀に投げ入れるように命じた。
これは夜を徹して行われ、その翌日、トロワの市民は攻撃を恐れて降伏を決め、トロワ司教ジャン・レギゼと町の有力者が門を出て城門の鍵を差し出し、開城を申し出た。
7月10日、シャルル7世は軍旗を持ったジャンヌ・ダルクとともにトロワ市に入城を果たした。
7月12日、フランス軍はトロワを出て、二日後の7月14日、シャロン=シュール=マルヌに到着。同市は、以前は抵抗を唱えていたが、使者が派遣されて降伏勧告がなされるとすぐにシャロン司教ジャン・ド・モンベリアールが町の鍵を差し出し開城した。
シャルル7世はトロワを発つ際、攻城戦の備えが十分でなかったため、ランス市民の抵抗を懸念していた。その王の懸念にジャンヌ・ダルクはこう語った。『恐れてはいけません。ランス市民は殿下の前にやってくるでしょう。勇敢に進撃して恐れてはいけません。大胆に進み続ければ、やがて殿下は全王国を回復されることになりましょう。』
7月16日、ランス近郊セッソー城でシャルル7世はランス市民代表使節団と謁見、使節からの全面降伏の申し出を受け入れた。
同じ日、ランス市内の親イングランド派の有力者たちが急いで町を離れており、この中に後にジャンヌ・ダルク処刑裁判の裁判長となる元パリ大学総長ピエール・コーションがいた。
同日夜、シャルル7世はランス市民の「万歳(ノエル” Noël ”)」の歓呼に迎えられてランス市に入城した。