デユノワ指揮下のフランス軍が平野に集結したイングランド軍の正面に対峙すること約1時間。イングランド軍は、ボージャンシー( Beaugency)、ムング(Meung)、ジャルジョー(Jargeau)などロワール河流域の街の駐屯部隊に合流するため撤退を開始した。
フランス軍の何人かの指揮官は士気の落ち込んだイングランド軍を攻撃して撃滅すべきだと提言したが、ただちにジャンヌダルクは今日は日曜日なので戦闘は禁じますと主張して攻撃を止めさせた。
イングランド軍は多大な損害を被ったが負けたわけではなかった。ジャルジョーほか上に挙げた他の街はまだイングランドの支配下にあり、態勢を建て直してオルレアンを再攻撃することもできる。
しかし、サフォーク公が最優先すべきとしていたのは生き残った兵士の手当てだった。
フランス軍の指揮官たちも同様で、それぞれの部隊の態勢立て直しに時間が欲しかった。
ジャンヌは5月13日、トウールの近くでシャルル王太子と会い勝利を報告し、直ちにオルレアンを発ち北東のシャンパーニュ地方の聖地ランスに向けて行進すべきだと訴えた。
だがフランスの指揮官たちは、ランスへ向かうのは、まず危険な位置に居るイングランド軍を排除してからにすべきだと順当な判断をしていた。
数週間後、ロワール河流域の軍事行動が展開された。
6月12日ジャルジョー、6月14日ムング、6月16日ボージャンシーと立て続けにフランス軍は勝ち、ロワール河岸をフランスの手に取り戻した。
6月17日 パテ―の戦い Bataille de Patay
オルレアンから北西に約10kmのところにパテ― Patayという町がある。今は畑ばかりの平地だが当時は森に囲まれていた。イングランドの中心部隊はこの森の中に身を隠した。フランス軍の斥候が偶然鹿が飛び込んだため隠れていたイングランド兵士が騒ぐのを聞き、部隊の居場所を発見。フランス軍の攻撃にパニックに陥ったイングランド軍は歴史的大敗を招くこととなった。
イングランド軍の戦死2000、捕虜200、将官もタルボット、スケールズ、レンプストンが捕虜となった。対するフランス軍の戦死者はわずか3名。フランス軍の圧勝だった。
この敗戦によって大陸側兵力を喪失したイングランドは、本土からの補充部隊到着までの間フランス軍の進撃になすすべなく、7月17日、シャルル7世のランスでの戴冠式を許すことになった。
この戴冠式によってシャルル7世はフランス王として急速に権威を確立する。
7月25日、イングランド本土からの補充部隊がようやくパリに到着すると、ベッドフォード公自ら兵を率いて出陣。
以後、ブルゴーニュ公も介入して三つ巴の激しい戦いが展開されることとなった。