ランスでの戴冠式 | 雷神トールのブログ

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戴冠式は何のためにどんなことをするのか?

私が8歳(小学2年生)の頃現エリザベス2世女王の戴冠式があった。1952年2月6日のこと。父の国王ジョージ6世が崩御し、1701年王位継承法に基づき25歳という若さでイギリス女王に即位した。ウチにはまだテレビはなかったけど、お寺の境内のテレビで観たのか戴冠式と馬車のパレードの映像を覚えている。

はや69年間の在位、お歳は95歳になんなんとしている。

 

英国は立憲君主制だけどもフランスは国王を処刑してしまった共和制の国だ。英国のトマス・ホッブズやジョン・ロックによって唱えられた社会契約説がフランスではジャンジャック・ルッソーにより人民主権思想へ発展し、大革命の基を作った。今でもフランスの国歌は「市民よ武器を取れ! Aux armes ! citoyens !  」と高らかに謳う。

ルイ16世の処刑については、このブログの次の次の連載、私が住んでるサンファルジョー村の城主だったルペルチエと深いかかわりのある事件だから、そこで書きたいと思います。

共和国だけどもフランスにはまだ王族、貴族がたくさん居る。そもそも国王って戦に勝った強い男がなるのが常だけど、それだけじゃダメで日本ならさしずめ京へ上って天皇のお墨付きを貰わねばならない。征夷大将軍は夷狄(イテキ)を成敗する天皇の守護役の筆頭なんだし国王じゃない。日本の国家元首は天皇陛下だ。首相は議会で多数を占める党の党首ってことだし。

じゃあ、西洋の国王は誰がどうやって決めるんだろ?と昔から思ってた。

フランス大革命のジャコバン中の最過激派モンタニャール(議場の上段を占めてた一団だから山岳党と呼ばれた)のサン・ジュストは国王裁判の演説で「国王とは簒奪(さんだつ)者である」と有名な言葉を吐きルイ16世処刑に強力な影響を及ぼした。つまり国王はドロボーの親玉ってわけだ。

フランスだって、今のどっかの国みたいに自称大統領が国家元首になれるわけじゃない。国王の資格についてはちゃんとした定めがあった。

そしてルイ14世が典型的な例だけど、絶対王政の根拠となった「王権神授説」があり、王権は神が授けたものでローマ教皇より上位にあるとされていた。ナポレオンが自分で王冠を頭に載せたのはそれを示す意図だったに違いない。

英仏百年戦争で、興味を惹かれるのは、特にジャンヌダルクの扱いに関してなのだが、どちらもカトリックの国だったはずで、兵士も神を信じてた。
だから処女ジャンヌが神の使いだという噂を英国兵も半ば信じて恐れたのだと思う。

英国がローマカトリックと決別して英国国教会を始めるのは、も少し後、1534年の宗教改革によってなので、ジャンヌダルクの時代はまだカトリックだった筈。


さて、ランス大聖堂でのシャルル王太子戴冠式。この儀式にも、フランク王国初代クロヴィス王の聖別で用いられた聖油が用いられた。

四人の騎士がランスのサンレミ大修道院に保管されている聖油の瓶を取りに行く。

国王の宣誓に続き、王権の象徴である王冠、金の拍車、王杖、王笏の祝別が行われた後、塗油式に移る。

祭壇の前に跪くシャルル7世に対し大司教ルニョー・ド・シャルトルが聖油で国王の頭、胸、両肩、両腕の関節に印をつけ、続けて国王はチュニクとマントを着ると、両手に塗油がほどこされた後、手袋と指輪をはめ、最後に俗人六名、聖職者六名からなる十二同輩が国王の頭上に王冠を捧げ、祭壇上の玉座まで国王を誘導した上で、国王に王冠を被せ戴冠式が完了する。

国王に戴冠させるのは、通例では諸侯筆頭としてブルゴーニュ公が担うが、ここではアランソン公ジャン2世が代行した。

戴冠式の最中ずっとジャンヌ・ダルクは王の傍らに軍旗を掲げたまま立っていた。

 

ランス大聖堂で戴冠式を見守るジャンヌ

 

重臣たちが臣従礼を行った後、ジャンヌ・ダルクは王の脚を抱き、涙を流しながらこう言ったという。

  『気高き国王さま、今や、オルレアンの囲みを解き、ランスの町に陛下をお連れして聖別を授けたことで、陛下が真の国王であり、この王国が属すべき天下人であることを人々に示せとの神の御旨は成就されましてございます』


同7月21日、シャルル7世は戴冠式での伝統である治癒の儀式を行うためランス近郊サン=マルクール修道院へ赴き、らい病(ハンセン病)患者にたいして触れる治癒儀礼を行った。

国王がハンセン病など不治の病と見做されていた病人の頭に手を置き、治癒の儀式を行うのは古くから引き継がれた伝統で、これまさしく、王様が神から授けられた霊性を持つという信仰から発している。

 

 

クロヴィスが行う治癒儀礼

 

「宗教的儀式によって、王は半聖職者的性格や奇跡的治癒能力を付与されると解釈され、王は聖職者に対しては優位性を主張しえた。
霊威は、王権が教権に対して一定の自立性を示す根拠となった」(この項の数節は、ウイキペデイア掲載記事を参照させて頂きました)。