前回の記事に「グローバリズムと愛国主義の闘い」とたいそうな題をつけました。
グローバリズム、「国を超えて地球全体を一体としてとらえる考え方や主義」と広辞苑にはあります。「普遍的な価値は国境を超え世界のだれもに受け入れられるはずだ」という考えが根底にあると思います。
「人はだれも人間として生まれながらの権利を持っている」。これは基本的人権思想ですね。天賦人権論。18世紀、英国のジョン・ロックやフランスの啓蒙思想家たちが主張し、アメリカのジェファーソンが独立宣言の起草に際し「人権宣言」として残した。今日では普遍的思想として 捉えられていますね。
普遍的思想という言葉が持つ拘束力ということを私は考えます。普遍的という言葉から人々は誰もが認める免れることができない侵しがたい真理、まるで万有引力の法則のような客観的真理を思い浮かべます。
万有引力というとアイザック・ニュートンの名前が出てきます。リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を導き出した。面白いのはニュートンが田舎に引き籠もって長い休暇を余儀なくされていたその理由。その休暇のお蔭で人類史に残る発見が行われた。
余儀なくされた休暇というのは、ペスト菌の大流行が原因だったのですね。コロナウイルスの世界的大流行みたいにペスト菌がロンドンを襲った。ニュートンが給費学生だったケンブリッジ大学は1665年8月に閉鎖に追い込まれ、奨学生の義務としてやらねばならなかった雑用からニュートンは解放され田舎に引き籠もり思考と実験に集中できた。ここではニュートンが行った光についての実験に少し触れたいと思います。
このブログのテーマとした「色」についても普遍的な考えとそうでない自由な考えがあります。
まず「いろ=色彩」についての物理的法則からゆきます。
現代物理学では、光と色彩について、光は「太陽が発する電磁波」であり、色彩は光波のスペクトル組成の差異によって区別される感覚と学校で教えます。
スぺクトルを最初に示したのはニュートンでした。1666年にプリズムの分散の実験を行います。暗室の窓に開けた小孔から導いた一筋の太陽光線をプリズムに通し、壁に映る虹色のスペクトルを観察しました。虹の色が途切れず連続的に変化しているのは基本となる原色と原色が組み合わさった複合色からなると考え、基本となる原色を Red(赤)・Orange(橙)・Yellow(黄)・Green(緑)・Blue(青)・Indigo(藍)・Violet(紫)としました。
そしてこれら7つの原色を混ぜ合わせると元の白色となることも確かめました。 ニュートンはまた、この実験に関し手紙を書きそれがニュートンの最初の論文となったのですが、この論文で光の正体について言及し、光線は光の最小の粒子の流れであり、屈折で色が生じるのは、光の色によって粒子の種類が異なるからだと説明しました。
ニュートンのこの粒子説にオランダのホイヘンスは「光は波動だ」と反対し光波動説を唱えました。
1865年にマクスウェルが方程式により、光が電磁波の一種であることを示唆しました。 1888年にヘルツが行なった実験によって電磁波も反射や屈折及び干渉や偏光といった光と同じ性質を持つことが判明しました。 光は電磁波の一種らしいということで、光は波動だとする見方は強まりました。 しかし、波であるとするならば、その媒質は何であるのか? ホイヘンスはエーテルが媒体であるとしましたが、媒質についてはさまざまな意見が出て定まりませんでした。マイケルソンによる光速の観測結果は古典的ニュートン力学の破綻を告げることとなり、エーテルも否定されました。
1905年 3月にアインシュタインは後にノーベル賞の対象となった論文を書きます。光が波動であることはすでに知られていましたが、光には粒子のように最小単位があると提唱しました。
この辺から後の現代物理学は高等数学の世界なので数式に弱い私には及び難い。せめてガリレオの古典的地動説とカトリックによる異端審問裁判について思いを馳せるのが 精一杯。
ガリレオの地動説は現代の人工衛星から撮影した地球の映像によってもはや確定的事実と認識されますが、一方いまだに日常の視覚的現象では天動説であってもいっこう差し支えないじゃないかともいえる。星や月や太陽が地球の周りを回っているように見えるのは実感として明らかなのだから主観的真実として間違ってはいない、と言えます。
1666年にニュートンがプリズムを使って光を屈折させ分散した実験を発表して以来、光は粒子説であれ波動説であれ、7つの可視光線の混合であると考えられ、これは普遍的真理として学校(特に公立学校)で教えられます。
ニュートンの説が公表されるやホイヘンスと王位学会の事務局長だったロバート・フックが強硬に反対意見を唱えた。そのことは上にも書きました。
私に興味深く感じられるのは、18世紀に入ってドイツの文豪ゲーテがこのニュートンの色彩の定義に異議を唱えたってことです。
ゲーテは「色彩論」という本を残しているそうですが、その本を入手したいと思いましたが未だ入手できていません。ただネットで得た情報によるとゲーテの主張の概要は「色とは個々人の主観によるものだ」というもので、ニュートンが言うようにだれにでも共通して見える客観的な「色」なんてものは実在しない、ということらしい。
ゲーテの色彩論は入手できていませんが、ゲーテの色彩論を受け継いだと言われるドイツのシュタイナーという思想家の「色彩論」の翻訳を買って読んでみました。が、これも正直良く分かりません。たとえば灰色をじっと見つめていると周辺に橙色とか赤い色が浮かび上がる。 それがその人が持つ色彩だ、とどうもそう言う事らしい。
シュタイナーの論理の展開の仕方は、どうも主観の展開に急務で、読者をなるほどと納得させる理論の展開に配慮が欠けてるように感じます。
色彩とは客観的に在るものではなく、人間が見ることによってはじめて存在するものだ。色は各人によって違う。と極端に言えばゲーテとシュタイナーはそういうことを主張したんだなと思いました。それはそれで確かに人間が光が当たった物体を見ることによってはじめて色が現れる。ということは間違いなく言えるので、そこまでは納得できます。
野外へ出て遠くの樹木をじっと見つめる実験をしたことがあります。なるほど。同じ木をじっと5分も10分も見つめていると、緑の木の葉の周辺に橙色の輪郭が現れる。そりゃ緑の補色が橙色だから輪郭にその色が現れても不思議じゃないな、と思いました。
だからといって「色彩とは人間の視覚機能に現れる主観的な現象だ」と言い切れるだろうか?疑問に思いました。
ゲーテとシュタイナーの主観性の強い色彩論に比べて、ニュートンがプリズムを使っての光を7色に分散してみせた実験の明瞭さはなんと力強いことだろう。これこそ物理学の「普遍性」を示す見本として挙げてもおかしくないと思います。だれがやっても太陽光線をプリズムに通せば虹の7色を得ることができる。こういうのを「確定的真実」というのだろうな。
今日は長くなるのでこの辺にしておき、また続きを書きたいともいます。
水彩絵の具セット。ヨーロッパの伝統、深い色合い
