フランスの戦後史 | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

第二次大戦中ナチスドイツに占領されていたフランス。連合軍のノルマンデイー上陸作戦の成功と ソ連赤軍のベルリン進撃に呼応してパリのレジスタンス市民は一斉蜂起しました。

 

 

 

 

1944年8月24日午後9時にルクレルク将軍の第二装甲師団の先遣戦車隊がパリ市庁舎に到着。市民は歓喜をもって迎い入れ、翌25日午後3時にはパリ地区ドイツ軍司令官ホルテイッツが降伏し、ここに1500日に渡ったドイツ占領から首都は解放されました。

 

午後5時ド・ゴール将軍はパリに到着し、市庁舎のバルコニーに姿を見せ、広場に集まった市民にの熱狂的な歓迎に応えました。

 

解放後のフランスは臨時政府首班にド・ゴール将軍が就きますが、パリ解放二週間後には臨時政府は改組され国内レジスタンス指導者や旧政党代表も加えた挙国一致政府が成立しました。9月9日に成立したド・ゴールの臨時政府は10月23日連合諸国から正式に承認されました。

けれども軍人のドゴール将軍と共産党員が多数を占めるレジスタンス指導部CNRとはもともと相容れない間柄なので解放後この対立が表面化し、1946年ドゴール将軍は一旦臨時政府首班を辞任します。翌47年には「フランス国民連合 RPF 」という政党を立ち上げ、第四共和制を発足させますが、53年にはRPFを解散し、ドゴール将軍は政界を引退します。

しかし、アルジェリア戦争は危機を迎え、植民地放棄に反対する市民と現地軍上層部が蜂起、パラシュート部隊がコルシカ島を占領。蜂起勢力は引退したド・ゴール将軍の再登場を要請しました。


58年6月ドゴールの組閣を国民議会が承認し、ド・ゴールはアルジェリア問題解決のための「全権委任」と憲法改正を国民投票にかけました。結果、圧倒的多数の賛成により、第四共和制が廃止され、第五共和制が発足しました。

 

この体制が現在に至っているのです。第五共和制は、第四共和制に比べ立法権(国民議会)の権限が低下し、大統領の執行権が強化され、行政官僚機構が強化されました。

 

現、マクロン大統領とフィリップ首相による政権もこの第五共和制のもとに行政を行っています。

1968年、ベトナム戦争の残酷な映像が報道されるにつけ世界中の若者が体制変革を求めてスト、大学占拠など反乱を起こし機動隊と激しく衝突を繰り返しました。学生の反乱に端を発したフランスでは、労働者、教員組合、農民組織のゼネストに発展し、全土が麻痺状態に陥りました。

 

外遊中のド・ゴール大統領、ポンピドゥー首相は急遽帰国。フランス経団連を通じ、基礎賃金の大幅な引き上げを要請、グルネル協定が交わされました。5月24日、ド・ゴール大統領は突然エリゼ宮から姿を消し、早まった学生たちは「ドゴール大統領を退陣に追い込んだ。我々は勝利した」と喜びます。実際はドゴールはドイツの温泉地バーデンバーデンに単身ヘリコプターで飛び、フランス軍司令官に軍の支援を取り付けたのでした。

 

5月30日(木)パリ周辺にフランス軍機甲部隊が配置され、軍の力を背景に国民議会の解散と総選挙を宣言して、国民にドゴール大統領の信任を問うたのでした。結果はドゴール派の圧倒的勝利。学生たちの運動に関わっていた共産党と左翼連合は議席を半分に減らす敗北を喫しました。

 

 

 

 

5年前に投稿した記事が軍人大統領ド・ゴールについてやや詳しく触れてますのでリブログします↓