町名変更前の西大久保二丁目の区域は山手線と明治通り(現東京メトロ副都心線が下を走ってます)、職安通り(現都営大江戸線が通ってる)と新大久保駅から明治通りまでまっすぐ繋がる駅前商店街に囲まれた範囲だった。(前回、ウチのあった位置が大久保小学校を挟んで南北と書いてしまいましたが、東西の間違いだと思います)。小学校時代のめのおは、ともかくこの範囲内で寝起きし、食べ、通学し、家に帰りカバンを置くと、近所の遊び友達と公園や空き地でメンコやビー玉、ベーゴマや馬跳びをして遊び、二丁目の枠から出ることはめったになかった。
精米所の古屋君ちは職安通りの歌舞伎町側にあり、たまに放課後寄り道することもあった。精米所のほかに漬物もやっていて、大きな樽に漬かった福神漬けや沢庵の匂いがした。古屋君ちの向かい、道路を挟んで二丁目側には建設会社の資材置き場があり、足場や金属製の資材に混じって建機が置いてあった。そこで暫く機械によじ登ったりして遊んでから家に帰ったものだった。10歳以下の子供にとってはそうした限られた狭い範囲が世界のすべてで、そこから外へ出ることは外国へ行くような冒険心を必要とした。多摩川やお台場まで子供だけで釣りに行く時も、魚釣りの気の高まりのほかに、外の世界へ行く冒険心が伴っていた。
ある日、遊び仲間が、「三角山に行ってみよう」と提案した。話には聞いていたので好奇心に誘われ、4・5人連れ立って新大久保駅前の商店街を超えた向う側へ遠征したのだった。商店街の向う側は西大久保三丁目だった。同級生の中でいちばん剽軽でジョークや物真似で絶えず笑わせ人気があった「ジロちゃん」やテレビタレントになって早世してしまったY君や落ち着いたなかに人の欠点を見抜く鋭さを隠し持ったKさんなどは三丁目に住んでいた。
三角山と呼ばれていたのはその三丁目の奥、海城高校とか保善高校の近く、西は百人町、東は現早大理工学部の間にあった。なにかを建設する際に掘りだした土を積み上げた人工的な土盛りで高さは15mほど。子供が踏み固めた頂上へ登る道がついていた。ここで何をして遊んだかは記憶にない。これが三角山、と確認しただけで満足だった。その日はさらに冒険心を掻き立て「射的場」へ行ってみようとなった。すぐ近くにコンクリート製の長いカマボコ型の建造物がいくつも並んで残っていた。現在、早稲田大学理工学部の高層校舎が建ってる場所。ここは陸軍の射撃訓練場だったのだ。子供が比較的容易に潜り込める状態で監視も無く放置してあった。そのコンクリートのカマボコの中に入り落ちてる薬莢や運がいいと見つかる弾丸を探して宝物にするのは男の子たちの最大の冒険だった。
こうした遺跡で遊んだのだから戦争があったことは子供の心に事実として刻まれはしたが、まだまだ戦争は遠い昔のことのようにしか感じられなかった。子供の中には戦争の話が好きな子はいた。だが、めのおはどちらかというと「ナンパ」のほうで、争いごとは嫌いだったし喧嘩も弱かった。近所の遊び仲間には石屋の「ケンちゃん」とその弟がいて屈強な身体つきをしていた。ある日裏の公園で、なにかをきっかけにめのおはケンちゃんの弟と取っ組み合いを演じたのだった。すぐにめのおは組み伏せられ、跳ね返すこともできずに負けを認め、ぐんにゃりと諦めの表情をした。こんな弱い奴とじゃ喧嘩にならねえ、とケンちゃんの弟は、苦笑いを浮かべ寝転がるめのおから手を放して立ち上がると行ってしまった。
ウチの前の路地は10年ほど前に行ってみて改めて驚いたのだったが幅が5mもなく、おまけに電柱が立ってるのでタクシーがぎりぎり通れるほどの狭さだった。その路地を駅前商店街まで母親は買い物に行くのだったが、めのおと兄は子供ながら、一緒に住んでいた父の実母の命を受けて角の酒屋へ瓶をぶら下げて焼酎を買いに行くのだった。樽から瓶に詰めてもらう量り売りだった。
路地の両側の家を思い出すと、ウチの斜め前の長い板塀に囲まれた「ムラスギさん」のお屋敷。その向かいが平塚で、次が長崎さん、その向うが石屋のケンちゃんちで、次が「髪結い」から名が変わって「美容院」となった「つねちゃん」ちだった。つねちゃんはケンちゃんよりも学年が上で、きいちゃんとくうちゃんと同じか小学6年生ぐらいだったと思うが、とにかく低学年のめのおにはひどく大人に見えた。
つねちゃんちの美容院の隣はすこし引っ込んでいて植木の奥に平屋の日本家屋があり、そこからいつも三味線の音が漏れていた。清元、常磐津……、小唄、俗曲というのか区別はまったくわからないが、江戸時代からの日本の伝統の音曲が聞こえてきた。
挿絵などでしだれ柳にろくろっ首や白い着物の裾から下がなくて頭に三角がついた鉢巻姿の幽霊の絵をみていたから、江戸情緒が感じられるその小唄の「おっしょさん」の前を通る時は一瞬緊張したものだ。そして、じっさいある雨の降る夜にそこを通った時、「火の玉」を見たのだった。おっ師匠さんちの裏が墓地だったことも幽霊や人魂が出るにはうってつけの舞台だった。ただめのおが見たのは青白い光ではあっても、ふわふわと空中を浮遊する「ひとだま」ではなく、空からまっすぐに落ちて来て眼の前でボッと燃えて消えたのだ。天然現象でこうした光るものが見えることがあると後年読んだことがある。
手習いごとは母親が子供の将来を思ってだろうが、小学の低学年では「お習字」を、高学年になってからは「そろばん塾」に通わせられた。お習字は小学校のすぐ近くで、いまでも白い半紙に墨汁で書いた文字に朱で訂正や丸が入った像を目に浮かべられるし、墨汁の臭いを記憶している。
そろばん塾は駅前通りに面していて、三丁目側にあった。とんかつ、メンチカツ、アジフライなど揚げ物の匂いがたちこめた店の奥の広い部屋が塾で、揚げ物屋の息子さんが先生だった。珠算で加減乗除の読み取り算、「ねがいまして~ワ」と読み上げ算の時の先生の甲高い声を思い出す。
この頃になるとテレビが公共の場に置かれだし、塾の帰りにプロレスや大相撲の中継を「全龍寺」というお寺の境内に据えられたテレビの前に立って観た。
珠算塾には2~3年通い、最後に商工会議所の検定試験を受けて2級の免状を貰った。暗算が出来ることは便利で、外国に居るいまもお蔭を蒙っている。ただ算術から抜け出せず、高校に入ってから数学へ切り替わる時に教諭の説明が足りないこともあったが、つむじ曲がりのめのおが納得できなくて躓き、算数が出来たことが返って足かせになりその後の進路を大きく変更しなければならなくなったことは、母親にとってもめのおにとっても予期しない出来事だった。
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