めのおの少年時代 その② | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

幼児期から少年期にかけて戦争というものを意識したのは、幼稚園の門の前、明治通りを戦車が轟音を立てながら通るのを見たとき。それに夕方遊び疲れて掘立小屋のラジオの前に寝ころび少年向けのラジオドラマ(たとえば怪人二十面相だとか)を聴いてる間に、シベリアに抑留されていた人々が帰還船で舞鶴港に着いた報告が毎回同じ音楽と共に流されること。

 

 

 

そして新宿に親に連れられて買い物に行くと三越の前などに白い傷病兵の服を着た「傷痍軍人」さんが地べたに膝から下を切り取られた脚を投げ出して通る人々に喜捨を乞うていた光景。

 

それぐらいで、親たちは戦争についてなにひとつ語らなかった。いつだったかめのおがもっと成長してからだったが、父がただ一言「日本は戦争に負けたんだよ」と漏らした。

 

その父に連れられてコマ劇場横の映画館へ「戦艦大和の最後」(タイトルは正確には覚えていない)を観に行った。沢山の血が流れ肉塊が飛び散り、艦橋の構造物がつぎつぎと破壊されてゆく光景をただ恐ろしいばかり、茫然として見守るだけだった。

東京大空襲で焼けてしまった家は、同じ西大久保二丁目でも明治通りのすぐ脇にあった。赤ん坊のめのおと3歳になるかならないかの兄が裸同然で家の前の路地で遊んでいる写真を一枚だけ見た記憶がある。

 

これはもう父親が亡くなってしまってから後のことになるが、めのおはふと大空襲で焼け野原になった土地はどこでも好きな処に家を建ててよかったのか? それで裏に公園と墓地のある土地に焼けぼっくいを拾い集めて家を建てたのか? などと、妄想的な疑問を抱いて兄に訊いたところ、「都から配給を受けてあの土地を貰ったんだ」という返事が返って来た。どうして明治通り脇の同じ土地に住めなかったのか? 大空襲後の混乱の中で、住民に土地を割り当て配分するという行政があったらしい。どんなふうな行政だったのか? 機会があれば調べてみたい。

兄は「オヤジはほら、兵器廠に務める将校だったから優先して貰えたんだ」と付け加えた。父はエンジニアで金沢の工学部を卒業し、戦前、結婚してすぐに大手の電機会社に就職し東京へ出てきた。
戦時中は雇用主の民間の会社からと軍からと二重にサラリーを貰っていた、と本人が自慢げに話すのをなんどか聴いた。兵器廠に務めていたおかげで前線へは行かず頭に軽く負傷しただけで戦争を終えた。頭に包帯を巻いた父が写った写真を覚えている。

明治通り脇の家と、公園と墓地に近い家との位置関係を地理的に言うと、小学校(大久保小学校)を挟んで南北に反対の位置にあった。隣には千住に住んでいた平塚の家族がやはり家を焼かれ、同じ姫路、同郷の誼で隣に家財道具一切を積んだリヤカーを牽いて引っ越してきた。平塚の家にはまさよっさん、さだよっさんという働き盛りの兄弟がいたので二人に手伝ってもらって掘立小屋を建てたのだった。

 

兄弟の下には「きいちゃん」という妹が居た。ほぼ同年齢でめのお兄弟より一世代上の「くうちゃん」がウチと公園の間にあった家に住んでいた。くうちゃんの父親だか、眉毛が長くて白かったからお爺さんだったんだろうが、大工さんでよく路地と家との狭い土間に腰掛けてノミなど道具をふるって仕事をしていた。きいちゃんもくうちゃんも戦争中は長野県に疎開していた。おやつがわりに歯磨き粉を舐めてた、とくうちゃんが話してくれた。

平塚のさだよっさんがあるとき姫路に行くというのでめのおが託され連れてってもらったのだ。トマトをお土産に持って行ったのはその時のこと。4歳と5歳の二年間を母方の祖母に預けられ養父(やぶ)の八鹿(より正確には八鹿の外れにある集落の九鹿(くろく)に住んだのだったが、さだよっさんとの汽車の旅がその前だったか後だったか定かでない。

 

さだよっさんとは、めのおが小学校に入ってからもよく釣りに連れて行ってもらった。ハヤだとかヤマメだとかタナゴなど。小学校も4・5年になると、級友の米屋の古屋君とクリーニング屋の小笠原君と3人で、多摩川や東雲のお台場にハゼ釣りに行った。多摩川へはふつう小田急に乗って行ったが、いちどだけ自転車で行ったことがある。お台場へは都電で月島、勝鬨橋、東雲と一回乗り換えて行った。東雲(しののめ)という言葉を聴くとハゼ釣りに行った時の胸の高まりが甦る。


2年間の田舎生活を終え東京へ出てくるなり幼稚園へ入れられた。幼稚園は四谷第五小学校の中にあった。新宿の花園神社と境界をひとつにしたところにあった。もう10年ほど前になるが、新宿区役所に所用があって出かけた時、この辺の建築物の立て込み様というか物資の凝縮振りに驚いた。

 

幼稚園の同じ組には小津組の親分の娘がいた。可愛い顔をしていて5歳の子供にも恋心に似た感情が湧くものだ。椅子に座った彼女の膝に頭を乗せて耳を掃除して貰った記憶があるが後から
抱いた幻想かもしれない。

幼稚園へ通う道は当時「赤線」「青線」と呼ばれる特別区域の中を通っていた。青白い不健康な顔をした女性が道端の開け放たれた縁から寝間着姿のままけだるそうな視線を子供に向けるのを気味悪くて怖いので避けながら急いで通り過ぎたものだった。

 

     

 

            (@´з`@)ノ゙