めのおの少年時代 その① | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

前回、子供の頃住んでいた家の裏庭に小さな菜園があり、トマトやさやいんげんを栽培していたと書きました。

 

トマトをきっかけに少年時代のことを少し書こうと思います。

 

 

 

 

めのおが少年時代から青年期、二十歳を迎えるまで住んでいた所は新宿区の西大久保駅の近くにありました。歌舞伎町から池袋寄りに山手線を一駅行った辺り。当時は町名が新宿区西大久保二丁目でした。町名変更があって現在は大久保一丁目と変わってます。一帯はコリアンシテイーとなり昔の面影はなくなり完全に変貌してしまってます。

昔の様子がどうだったかは、五十代から上の老人の記憶にしか残っていないのです。小学校、中学校とも大久保の名の付いた区立学校でした。このブログで再会ができたハリーメイさんとは小学校、中学校とも同じ、クラスもほとんどが同じでした。中学校は名前が変わり新宿中学校となってます。

こうした東京のど真ん中にトマトやさやいんげんを栽培する畑があったことはとても驚きです。

 

めのおが生まれたのは昭和19年(1944年)で太平洋戦争はまだ終結してなかったんです。東京大空襲を生まれたばかりのめのおは母の背中で体験したのでした。西大久保から明治通りへ出て
明治神宮公園まで母はめのおを背負い兄の手を引いて炎の中を逃げたのでした。「道の脇に家が火を吹いて燃えてるし、炎の中を走って逃げたわよ。あんな怖い思いしたことないわ。もう二度とあんなめ~に遭いたくないわ」母は死ぬ間際まで腹の底から声を振り絞るようにして語りました。

 

 

めのおは太平洋戦争中に生れたということをもの心ついてからも暫くは知らなかったし、そんな大戦争を日本が世界を相手にしたことすら自覚することはありませんでした。もちろん小学校5年生くらいで社会科の時間に先生が満洲国や天皇陛下の人間宣言について少し語ってはくれました。でも、子供の心は、いま身の回り、目の前に映る光景がずっと昔からあり、将来もそのままだろうと思い込んでしまう傾向があるように思います。

それはどういった光景かと言いますと、家々に紛れて畑や野原がいっぱいあるという光景です。東京大空襲で焼け落ちたまま再建せずに放ってあった空き地があちこちにありました。小学校へ行くまでの通学路にも歯が抜け落ちたように空き地がいくつもあり、冬に雪が積もると空き地には処女雪が純白のまま足跡もなく残っていて、膝ぐらいまで雪に潜るのが嬉しくて空き地を横切って行ったものでした。

ウチの隣は植木屋さんで広い土地にぎっしりといろんな木が植わりちょっとばかり鬱蒼とした小さな森の雰囲気を醸していました。その小さな森とウチとの間の路地の突き当りには畑がありサツマイモが植えられていました。やがて畑はなくなり児童公園になってしまいましたが、隅には防水池があり銀ヤンマや鬼ヤンマが飛んできました。公園は墓地に繋がっていて、境目に欅の大木が7~8本生えていました。大都会に居ながらこういった自然に囲まれて育ったことを幸せに思います。

さてめのおが住んでいた家がどんなものかと言えば、父親が焼けぼっくいと焼けトタンを拾い集めて自分で建てた掘立小屋で、天井が無く、梁をネズミがちょろちょろ走って渡るのが見えました。冬には隙間から雪が降り込み、朝目覚めると枕元にうっすら雪が積もっていたりしました。

トンボは夏になると麦藁トンボ、塩辛トンボ、銀ヤンマ、鬼ヤンマが飛んできたし、竹竿の先にモチを塗りつけて掴まえて遊んだものでした。セミを掴まえるのも楽しみでした。油蝉が多くて欅の木の肌の色に保護色のように紛れて鳴いているのを見つけ木に登って掴まえるのは何よりの楽しみでした。欅の木の肌のざらざらした感触と褐色に灰色が混ざった色合いがとても好きでした。欅の幹と茶色に黒の縞模様の油蝉の背中はよく似合いました。油蝉を採りたくて欅の木登りをしたとも言えます。

 

青緑の背と透明な羽を持ったミンミン蝉は珍しかったから、良く通るミンミンの鳴き声が聞こえると、心が躍り、捕虫網を摑むと夢中で声を目指して駆け出したものでした。やはり保護色になるのをセミは知ってるのか、青桐の幹にとまって鳴いてました。ミンミン蝉に間違いないと判ると余計に胸は高鳴り、首尾よく掴まえると得意さで胸がいっぱいになったものでした。

 

秋になり公園の水溜りには赤とんぼが沢山飛来してちょんちょん尾の先を水につけて産卵する光景が面白く見えました。

めのおは4歳と5歳の2年間を姫路から播但線で行った日本海に近い八鹿という田舎に預けられていました。現在は養父市に吸収合併されてますが、八鹿の風景は70年近く経って再訪したところ幼児の目に映った光景とさして変わってはいないと思いました。この2年間の田舎の生活がめのおが現在もフランスの田舎に住んでることと深い所で繋がってると思いますが、このことについてはまた別の機会に書こうと思います。

5歳になって新宿区大久保の両親の家に戻ってからも暫くは都会育ちの子供たちに素直に溶け込めなかったように思います。ただ、その分、まだ僅かに残っていた自然の風物に共感を寄せて育ったのでした。大都会に育ちながら僅かばかりでも自然環境を味わえたことは、こういった言い方をすると叱られるかもしれませんが、戦争が置いていった土産と言えます。いや、多分、戦争の帰結としての大空襲がなくても、漱石や鴎外はじめ当時の文筆家が書いたものを読むと、明治大正と昭和の初期までの東京には各家庭にも自然がたくさん残っていたことが感じとれます。

 

  (つづく)