方法序説 第4部 その② | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

「方法序説」パート4 次のパラグラフへ進みます。

 

 

 

Puis, examinant avec attention ce que j'étais, et voyant que je pouvais feindre que je n'avais aucun corps, et qu'il n'y avait aucun monde ni aucun lieu où je fusse; mais que je ne pouvais pas feindre pour cela que je n'étais point; et qu'au contraire de cela même que je pensais à douter de la vérité des autres choses, il suivait très évidemment et très certainement que j'étais; au lieu que si j'eusse seulement cessé de penser, encore que tout le reste de ce que j'avais jamais imaginé eût été  vrai, je n'avais aucune raison de croire que j'eusse été; je connus de là que j'étais une substance dont toute l'essence ou la nature n'est que de penser, et qui pour être n'a besoin d'aucun lieu ni ne dépend d'aucune  chose matérielle; en sorte que ce moi, c'est-à-dire l'âme, par laquelle je suis ce que je suis, est entièrement distincte du corps, et même qu'elle est plus aisée à connaître que lui, et qu'encore qu'il ne fût point, elle ne l'aurait pus d'être tout ce qu'elle est.

 

 

<フランス語ノート>

feindre 英語のフェイント。バスケなどでデイ
ェンスを躱わすために見せかけのアクションを 取ること。feindre の過去分詞が feinte。

feindre qqc // feindre de + inf.  ……の振りをする。見せかける。古くは ~ + inf また 稀に ~ que + ind. も用いた。

このパラグラフには接続法が沢山出てきます。indicatif が現実を表すに対して 接続法はヴァーチャルな想定された物事、筆者(ここではデカルト)が想像(仮定)した事象 を示していることがわかります。

fusse : être の接続法半過去形

j'eusse été : être の接続法大過去形

il suit de la que + ind. その結果~ということになる

il fût:être の接続法半過去 


 

 

<和訳>

それから、私がどんな(状態)であるかを注意深く検討しながら、かつ私がいかなる身体も 持たず、世界は存在せず、私が居る場所もどこにもないといった振りをすることができる、と 気付きながら、しかし、そうしたことのために私が何物でもないふりをすることは出来ない、と。 その結果反対に、たとえ私が他の物事の真実を疑うとしても、極めて明らかに、極めて確かに 私は居る、ということになり、反対に、私が思考を止めただけで、私が想像した以外のすべてのことは真実となり、私が居たことを信じるいかなる理由もなくなる。私というものは、このことから、 その本質も性質も考えることにしかないようなある実体なのだ、と認識した。存在するためには いかなる物質的なものに頼ることなく、いかなる場所も必要ない、というような実体なのだと。いうならば、この私、つまり私をこのようにしている魂は、身体とは完全に別のものである。そして魂を認めることは身体を認めるよりも容易であり、身体は何物でもなく、魂は如何様にもなり得る、ということを認識した。

 

 

 

このパラグラフで最も重要なのは次の文:

「私というものは、その本質も性質も考えることにしかないようなある実体なのだ」

 

「エリザベート書簡」の最初の手紙、エリザベートがデカルト宛に書いた手紙に、このことが出てきます。私というのは、貴殿に依ればある実体なのですね」と。

 

「その結果この私、つまり私をこのようにしている魂は、身体とは完全に別のものである」

 

 

<訳者注>

ここでデカルトは、フッサールがいう、「あらゆる発見のなかでももっとも偉大な発見」の前に立っています。

 

せっかく大発見の前に立ちながら、「我(エゴ)を思うところの実体( substance )とみなし、それと不可分に、人間の魂 または霊魂とみなし、因果律による推論のための出発点とするという目立たないが致命的な転換によって、まさにそんなふうに考えてしまった。そして、この転換によって彼は、不合理な超越論的実在論の父となってしまった。」(デカルト的省察 第10節 付論「デカルトは超越論的な転換に失敗した」岩波文庫54p)

このパラグラフではなく次のパラグラフで、デカルトは「考えるためには存在する必要がある  pour penser, il faut être 」と言っています。これは、上のパラグラフで「私というものは、存在するためにはいかなる物質的なものに頼ることなく、いかなる場所も必要ない、というような実体なのだ」「魂は身体とは完全に別のものである」という認識とは矛盾するではないか、とめのおは考えます。


長くなるので今日はここで一旦切りますが、めのおはデカルトの「我(エゴ)」と「考える(私)」には どれも同じではなく、複数あると考えるべきではないか、と思い至りました。

数字や言語で考える思考機能をもつ私。すべてを疑っている懐疑する私。懐疑する私を観察する私。つまり指向性をもった(考える)私。他人(他のエゴ)と私の区別の意識から生じる自意識というべき我(エゴ)。それらを総合した総体的な Moi(私)……等々と。

 

    (つづく)