方法序説、第4部 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

夕べ遅く、フッサールの「デカルト的省察」のフランス語訳がたしか買ってあった筈だ、と気づきながら、猫のイナリがソファーで寝てたのと、もう深夜を過ぎていたので朝になって探そうとそのまま寝室に上がったのでした。

 

 

 

 

今朝、本棚と手近の段ボール箱を探しても見つからず、その代わりデカルトの「Discours de la methode」と「 Les Meditations metaphysiques 」、さらに「Correspondance avec Elisabeth 」(エリザベス書簡)の文庫本が見つかったのでした。近いうち読もうと思って、Garnier Classique とは別に、本屋で目に留まったのを買って本棚に入れたまま忘れていたのでした。

フッサールの「デカルト的省察」も確か文庫本でフランス語訳を買った記憶があるのですが、いまは見つからず暫くは日本語訳で我慢します。「デカルト的省察」と並行して、今朝見つかったフッサールの「現象学の理念」も読んでゆこうと思います。20世紀になってデカルトがどのような受け止められ方をしたのか? とても興味があるからです。

では今日は、まず最初に「方法序説」の第4部の最重要部を読みます。

ここに有名な「われ思う、ゆえにわれ在り」が出てくるからです。

 

Mais aussitôt après je pris garde que, pendant que je voulais ainsi penser que tout était faux, il fallait nécessairement que moi qui le pensais fusse quelque chose; et remarquant que cette vérité, je pense, donc je suis, était si ferme et si assurée, que toutes les plus extravagantes suppositions des sceptiques n'étaient pas capables de l'ébranler, je jugeai que je pouvais la recevoir sans scrupule pour le premier principe de la philosophie que je cherchais.

 

 

<フランス語ノート>

prendre garde que + ind. ~ ということに気づく。 という事実に注目(留意)する。

extravagant(e,s)  常識外れの、常軌を逸した、突飛な

scrupule (男)  ためらい、疑念、良心の咎め


<和訳>

「しかし、私がこうしてすべてが偽りであると考えようとしていた間、そう考えている私は必然的になにものかでなければならない、ということにすぐに気づいた。そして、この、私は考える、ゆえに私は在る、は、懐疑主義者のどんな突飛な仮定をもってしても揺るがすことができない、確固とした不動の真理であることに注目し、私が求めていた哲学の第一原理としてためらうことなく受け容れることができると判断した。」(方法序説、第四部、最初のパラグラフ)

 

 

   (つづく)