デカルトは超越論的転換に失敗した | 雷神トールのブログ

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フッサールの第一省察、第10節 「付論 デカルトは超越論的な転換に失敗した」

 

 

(引用の開始)

デカルトは真剣な意志を以って徹底的に先入観から逃れようとした。しかし私たちは最新の研究、特にジルソンやコイレらの深く掘り下げられた素晴らしい研究から、デカルトの省察のうちに、いかに多くのスコラ哲学が隠されたまま明らかにされていない先入観として潜んでいたか、を知っている。

我思うで問題になっているのは疑いの余地がない「公理」であり、それが他の証明されるべき仮説や、また場合によっては、帰納的に基礎づけられる仮説と一体になって、世界について演繹的に説明する学問のための基礎を提供しなければならず、……こうしてこの学問はちょうど数学的自然科学のように規範に関わる学問、幾何学の秩序に従った学問となるかのように、考える先入観である。

あたかも、私たちの疑いの余地がない純粋な我(エゴ)のうちに、世界の小さな末端を、哲学する自我にとって唯一疑いえない、世界の部分として救いだしたかのように、そしていまや、我(エゴ)に生まれつき備わった原理に従って正しく導かれた推論により、残りの世界を導き出していくことが問題になっているかのように……こんな考えを決して自明のこととしてはならない。

しかし残念ながらデカルトの場合は、我(エゴ)を「思うところの実体(スプスタンテイア・コギターシス)」とみなし、それと不可分に、人間の魂(メーンス)、または霊魂(アニムス)とみなし、因果律による推論のための出発点とするという、目立たないが致命的な転換によって、まさにそんなふうに(上のセンテンスにあるように)考えてしまった。

そしてこの転換によって彼は、不合理な超越論的実在論の父となってしまった。

そこでデカルトは過ちを犯してしまい、あらゆる発見のなかでももっとも偉大な発見の前に立ち、或る程度はそれをすでに発見していたにもかかわらず、その本来的な意味を、それゆえ超越論的主観性のもつ意味を捉えそこない、真の超越論哲学へ導くはずの入り口の門を、くぐることがなかった。(引用の終わり)

 

      ***                ***

ここ、第10節の重点は:
デカルトは、我(エゴ)を「思うところの実体(スプスタンテイア・コギターシス)」とみなし、それと不可分に、人間の魂(メーンス)、または霊魂(アニムス)とみなし、因果律による推論のための出発点とするという、目立たないが致命的な転換によって、超越論的主観性のもつ意味を或る程度は発見していたにもかかわらず、その本来的な意味を捉えそこない、真の超越論哲学へ導くはずの入り口の門を、くぐることがなかった。

というフッサールによるデカルト的思考の限界の指摘にある。

フッサールが致命的としている点は言い換えると:
「我を実体とみなし因果律による推論のための出発点とするという目立たないが致命的な転換」 というところにある。

疑っている私だけは疑えないとしたデカルトは,主観と客観との区別をし,客観の実在性を説く超越論的実在論となった。

外部にものが実体として存在し,それは(超越論的世界像)確かなものであるという自然主義的態度の基礎となる。

フッサールの現象学は、このような外部に確実にある存在を認める立場は不徹底であって、独我論的自我には,ものが存在しようとしまいと,現象として見ることからはじめる他はないと主張している。

疑っている私以外に確実なものはないというデカルト的懐疑をさらに徹底することによって,われわれの外界に与えられるのは,知覚与件である現象だけである。それは環境世界的に与えられるのだから,実在物と考えられない。この不可疑的な現象をフッサールは超越とよぶ。

また、フッサールは「判断停止(エポケー)」という現象学の基本となる方法的手続きを徹底する重要さを説いているので、ここでもデカルトが「考える我(エゴ)」を発見しながら、それを外部世界にまで徹底せず、外部にものが実体として存在し、それは確かなものであるという自然主義的態度に留まってしまった、と指摘している。

エポケーはもともとギリシャ語で「中止、抑制」の意で、古代の懐疑主義ピュロン派において中心概念として使われた。フッサールはこれを懐疑主義的に使うのではなく、客観的世界の存在についての態度決定を「差し控える」「禁止する」、それゆえ存在の信念を「働かせない」「括弧に入れる」こととして使っている。

素朴な自然的態度を差し控えて対象の存在に関する断定を避け、純粋意識の領域を確保するための方法的手続きが「判断停止」なのである。


「経験世界の存在に対して自由に行う判断停止によって、省察する者である私の眼差しに現れるものを純粋に捉えるならば、世界が存在しようと存在しまいと、また、私がそれについてどのような決定を下そうとも、私と私の生は存在の効力をもったまま影響を受けることなくとどまっている。これは重要なことである。そのような判断停止によっても私にとって必然的に存続する、自我とその生は、もはや世界の一部ではない。そして「我あり、我思う(エゴ・コギト)」と言っても、それはもはや、「この 人間としての我がある」ということを意味してはいない。」(フッサール、デカルト的省察、第一省察の第11節、岩波文庫、浜渦辰二訳56頁)



「超越(的)」と「超越論的」とは意味が違うことを理解しなければならないが、ここでフッサールが言う超越とは、「原理的には,私が疑おうとすれば疑いうるが,現実には疑う根拠や意味を持たない現象」ということであり,言い換えれば私にとっての事実という意味。現代的にいえば,私に取り込まれた情報と言い換え得る。

ここで「超越」という語と「超越論的」の意味を確認しておくと:
超越とは、現象学では意識のうちにあるものを「内在」といい、意識の外に あるものを「超越」という。カントは、経験をこえる形而上学的対象および それに関する認識を超越的( transzendent )と呼び、 超越論的(先験的)と区別した。

 

 

      。(;°皿°)