長年(一生のほぼ半分近くを)フランスで暮らすうち、どうにも肯定できない、この国の社会組織、労働組織に厳然としてある、欠点に気づき始めた。過度の分業制(これは私の仕事じゃないと、撥ね退け他へ回す。どこもそれをやるので大事な問題を抱えた市民は盥回しにされる)とか、ひとりひとりが日常の物事の判断に見せる過度の主観性(思い込みが激しい、冷静に客観的に物事を見ようとする意志に乏しい)とか、後者は良い方へ延びれば優れた芸術的創造として現れるのだが、個人と社会との関係、企業内での労働の仕方、他人との関係などで否定的に働けば、物事を自他ともにマイナス方向へ引きずり込んでしまう。
日本人の私から見れば、どうしてこんな簡単なことがこの人たちには解らないのだろう? と首を傾げてしまう。長年暮らしている間に、それは彼らが子供の頃から受けた学校教育と家庭の教育に原因があるし、この国の数百年に渡る歴史的文化的風土に起因していることが理解できるようになる。フランスに着いた44年前と比べフランスの社会は経済的政治的にあきらかに衰退した。フランスを愛する者の一人としてこのまま見捨てて置けない、なんとか彼らの欠点を指摘し、良い方へ向いてくれないかという願いのもとにアドバイスを試みよう、と思い始めた。
デカルトが創始者とされている近代合理主義、(フッサールによれば不合理な超越論的実在論の父)、「われ思う、故に我あり」というテーゼをひっくり返してみたくなったことの背景には、そういう思いが潜んでいた。ひっくり返して「われ在り、ゆえにわれ思う」とした時のこの「われ在り」は自然主義的に普段感じている生きているという身体感覚をそのまま表現したもので、哲学的考察の論拠としては素朴過ぎるなと反省してるのだが、フランス社会の行き詰まりの現状の根源は、哲学にあるというよりむしろ現代フランス社会がいまだに抱えている「分業制」への信仰というか伝統社会への無批判な肯定が、分業=合理主義=デカルトといった短絡的思考によってデカルトに批判の矢を向けたのだと思う。したがって、デカルトを直接原文で読むことから始めなければいけない。
労働組織の分業制は、合理主義でもあるけれど、産業革命によって新たに生まれた労働者階級の誕生と、20世紀初頭にUSAで始まったT型フォードに代表される流れ作業による大量生産方式の必要性によって生じた一連の作業の可能な限りの細分化に原因がある。さらに労働組合のストによる要求貫徹の考えはフランスの1930年代の「人民戦線」政府による労働環境の改善政策の結果でもある。
しかしそれらの社会的、歴史的条件(情報)のすべてを同時に考察の対象とすることはできないので、ここはひとまずデカルトから始めるしかないと思う。
いま手許にあるのはフッサール著「デカルト的省察」(Edmund Husserl Cartesianische Meditationen 浜渦辰二訳、岩波文庫)という本です。しばらくこの本を読み進めたいと思います。以下序論の要約。
序論 (第一節 「デカルトの省察は哲学的な自己反省の原型である」)
フッサールは自らの超越論的現象学を「新デカルト主義」と呼んだ。
「ルネ・デカルトは、その省察によって超越論的現象学に新たな刺激を与え、すでに生まれつつあった現象学が超越論哲学という新しい形態へと変革を遂げるよう、直接働きかけた」(序論の第1節)
「省察」の目標は、哲学を絶対的に基礎づけられた学問へと、全面的に改革することだった。
このような建て直しの要求は、デカルトにおいては、主観に向けられた哲学という形をとった。
この主観への転向は、二つの段階において行われた。
第一に、哲学のあり方。自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまでは正しいと思われて来たすべての学問を転覆させ、それをあらたに建て直すよう試みるのでなければならない。哲学ないし知恵とは、哲学する者の一人一人に関わる重大事である。それは自分の知恵とならねばならず、普遍的に探究されるものでありながら自ら獲得した知として初めからそしてその歩みの一歩一歩において、自らの絶対的な洞察に基づいて責任を持てるような知、とならねばならない。
このような決心をしたなら、それはまったくの無知から始める道を選んだことになる。
そこでは明らかに、真正な知に導いてくれる前進の方法をどうしたら見出すことができるか、について考えることが第一である。
デカルトの行った省察は、哲学を始める者それぞれに必要な省察の原型を表している。
第二に、哲学する自我へ立ち帰ること。つまり純粋な「思うことをする(コギタチオ)我(エゴ)へと立ち帰ること。
(デカルトは)経験と思考のうちに自然に生きている時には確かなものも、それが疑う可能性がある限り方法的な批判を向け、疑いの可能性を持つものをすべて排除することによって、おそらく後にのこるはずの絶対に明証なものを得ようとする。
世界の存在は、この始まりの段階では通用させてはならない。省察する者は、ただ自らの思うこと(コギタチオ)をする純粋な我(エゴ)としての自分自身のみを絶対に疑いえないものとして、たとえこの世界が存在しないとしても廃棄できないものとして、保持している。
このように還元された我(エゴ)が、いまや一種独我論的に哲学し始めるのだ。この我(エゴ)は、自分自身の純粋な内部から客観的な外部を導き出すことができるような、疑いの余地がなく確実な道を探し始める。
デカルトは、まったく新しい哲学を創設した。それは、哲学のスタイル全体を変更することで、素朴な客観主義から超越論的な主観主義へという、根本的な転換を行った。
(つづく)
