大成をめざした Foujita その⑪ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

モデリアニと仲の良い友達であっても藤田は人間として画家として違った人生観と、画家としての在り方についても違った考えを持っていた。そしてその後の長い人生をその通りに歩んでいった。

 

 

母と子↑ 1917年、紙に水彩とグワッシュ 40 x 28.3 cm  The Lewis Collection

 

 

藤田は明治生まれの日本人で日本が世界に門戸を開いたばかりの明治19(1886)年の生まれ。明治維新から18年しか経っていない。この時代に生まれた日本人に多くみられる芯の強い、粘り強くしかも優しい感受性を持っていた。若い頃柔道をやって有段者であり柔和な身体つきからは想像できないほどの強い体力を持っていた。

藤田は沢山の随筆を残しているが、なかでも「腕一本」と題した本は、この画家の修業遍歴時代からどのようにして世界的な名声を博すに至ったかを知るうえで貴重な随筆となっている。

「パリでの貧乏時代に、描き溜めた素描・デッサン五百枚の中から、後世に残すべき自信のある十五・六枚残し、後は皆飯を煮たり寒さをしのぐために焼き捨て、これで何時死んでも、この十五・六枚の絵だけは後世に残ると、……生きて居る中に私の名前が世の中に出なくとも、死んでからで沢山だ、と安心立命の境地でいたが、ある朝熟考した末、……外国の哲学で言ふと、矢張り生きて居る間に旨いものを食ひ、生命を長らへ方々旅行もして見分を広くし、又参考品を沢山所蔵して、而して出来るだけ多数の良い絵を描いてこの世を去る事としたならばより偉大に能率が挙がりはしないかと云ふやうに考えが浮かんできた。」 (「腕一本」125頁)

ここの「より偉大に能率が挙がる」という表現は普通のアーチストの生きざまと矛盾するような、どこか工場の生産管理担当のエンジニアが言いそうな言葉で滑稽味があるが、明治生まれの人には現在使われているのとは違った意味があったのかもしれないと考えてしまう。

藤田の文はさらに続く。「私は誤って居た。生きれる丈け長生きをしよう、少なくとも生きてゐる間に何千何万枚と云ふやうな絵を残してやらうと決意し、幸いにもその何千枚の中で半数良作があったとしたらば大したものであらねばならぬ。又その中の十分の一にしても二十分の一にしても特別に良いのがあればよい、傑作と言ふものは中々生まれ出ずるものでない。」(同上)

上の文の最後のセンテンスはこの度の Léonard Foujita 展のカタログにも記載されている。

<< Si la moitié, le dixième ou même le vingtième d'entre elles est bon, ce sera un honneur considérqble, le chef-d'oeuvrene se produisant que rarement.>>

そしてフランス語の藤田語録はさらに続く……。

 

 <<Etant donné qu'il est impossible d'être le peintre dont tous les tableaux seraient des chefs- d'oeuvre, mon premier devoir consiste à peindre beaucoup. Le peintre ne peut s'attendre à ce que le seul tableau qu'il aura peint en un an attire l'admiration de tous. Etre peintre serait plutôt amonceler des tableaux toute sa vie. Rodin a laissé une énorme quantité d'oeuvres et, à ce titre, il mérite une considération éternelle. >>
( Foujita, Album de Tsuguharu Foujita, Tokyo, Asahi Shinbunsha, 1929 )

「すべての作品が傑作という画家などあり得ないのだから、私が第一にやるべきは沢山描くことである。万人の称賛を得る絵が一年に一枚描ければ画家としてそれ以上望み得ることはない。それよりも画家であるといえるのは一生に描いた絵の集大成によってなのだ。ロダンは膨大な作品を残したがそれが故に永遠の称賛に価するのだ。」(1929年朝日新聞社刊、「藤田嗣治画集」)


パリでの初めての個展が好評を得て、続けて翌年の秋に開かれた二回目の個展に藤田は、「巴里風景」と題した風景画と「聖母子」と題した聖画を出品した。(冒頭に貼り付けた画像がそれです↑)

 

この時期の藤田はモデリアニの影響と思われる縦に細長くデフォルメした人物像を描いている。

 

藤田自らが加筆訂正した伝記と芸術論「藤田嗣治芸術試論」を書かれた夏堀全弘氏によると、

「藤田とモデイリアニの、デッサンの線についての強い研究欲が、モンパルナスの苦闘時代を通じて その生活を共にするふたりを強く結びつけた。また線による絵画研究という共通した制作態度は、 おのずから両者の間にある共通した要素、すなわち縦にのびる姿態といった中世的禁欲とモンパルナスの現代的官能との二律背反の表現を生むに至ったと思う。当時のふたりの間には、互いの詩心を通じての最も親密な交流による芸術上の相互影響があった。ドッチオ、シモーネ・マルテイーニ、ボッテイチェリ、ジョルジョーネ、チシアン、ラファエルロ等といったイタリアの古典絵画や、ビザンチン風の線状に魅せられたモデイリアニの画風は、藤田の絵画の方向と一致している。」(夏堀全弘「藤田嗣治芸術試論」130頁)

そこからこのふたりの画家はそれぞれ裸体画を描き始めるのだが、モデ
リアニが肖像画から裸体画に進んだのに対して藤田は風景画から裸体画に進んだ。

 

     (つづく)