まず次の動画をご覧ください。これはめのおが15歳の時に観た映画「モンパルナスの灯」の予告編で、思春期の感じやすい心は、貧困の中で美への純粋を貫く画家に感動してしまい、僕もパリへ行く、と自分に誓うまでになったのでした。
どうしてそこまで感動したのか? 今考えるとこの白黒映画の映像とジャック・ベッケル監督の演出、不世出の俳優ジェラール・フィリップの演技の故だったと思い至ります。まず彼のこの声を聞いてみてください。
これってふつうの男の声じゃありませんよね。どこか「呪われた者」の声って感じがします。 藤田のモデルにもなったり、写真家マン・レイの愛人となりそのシュールな写真で有名になった「キキ」が語ったようにモデイリアニは「足の先から頭の先まで身震いさせるような声」で絶えず不平を並べていた。
マン・レイによる「キキ」の写真↑
モデイリアニと藤田、それにスーチンは同じ建物に住んでいたことは知っていましたが、それぞれの 住居兼アトリエがどんな配置だったのか? などはわかりませんでした。
シテ・ファルギエールの思い出を藤田が語ったとして、アンドレ・サルモンは次のように書いています。
「僕がモデイリアーニと知り合いになったのは1913年の末だった、と藤田が語り出した。その頃彼(モデイリアニ)とスーチンと僕は三人でシテ・ファルギエール14番地の同じ家に住んでいた。大きな門を入ると正面に、ごく小さい僕たちのアトリエの建物の入り口があった。ちゃちな建物だが、そこまでゆくには、お城かなにかにあるような橋を渡らねばならなかった。スーチンとモデイリアニは一階に、左右に向かいあって住み、僕のアトリエは二階にあって両側が壁だった。その頃モデイリアニは石で彫刻をやっていて、絵を描いていなかった。鉛筆でデッサンをやるだけだった。……彼は僕と大の仲良しだった。というのは二人とも詩が好きだったからである。彼は僕のところへやってくるたびに、どっかの雑誌で見つけたばかりのタゴールの詩を暗唱してきかせた。彼はまた中国や日本の画家のことを話しに僕のアトリエによくやってきたが、当時流行だった黒人の芸術についてはいっぺんも話したことはなかった。」
ハステイングスの肖像を前にアトリエの中のモデイリアニ↑
モデイリアニはイタリアのトスカナ地方のリヴルヌ(Livourne )という町のセファラッドと呼ばれるイベリア半島を起源とするユダヤの名家に生れた。誕生日は1884年7月12日。父は有力な商人だった。セファラッドとは中世ヘブライ語でイベリア半島を意味し、スペインとポルトガルに住むユダヤ人共同体を指した。モデイリアニが17世紀オランダの哲学者スピノザと先祖を同じうすると言われる理由がここにある。
モデイリアニは幼少の頃から病弱で母親が健康を気遣って息子をフイレンツエとヴェニスの美術学校に入れた。1902年のこと。しかし1906年にはモデイリアニは当時前衛芸術の中心だったパリへ独り出てくる。最初はモンマルトルの「洗濯船」でピカソやロートレックなどのアーチストと交流した。 1909年にはモンパルナス「のシテ・ファルギエールに移った。1914年から2年間、英国の女流詩人ベアトリス・ハステイングスと同棲し彼女から酒と麻薬を覚え、アルコール依存症となっていた。 母親が気遣った通り病気は肺結核へと悪化していた。
モデイリアニが描いたハステイングスの肖像↑
同じ建物内のモデイリアニのアトリエを訪ねた藤田は絵を描きながらワインや強い酒を浴びるように飲むモデイリアニに驚愕した。藤田は体質的にアルコールを受け付けない下戸なのか、それとも意志により飲まないようにしていたのか定かでないが、酒は呑まなかった。
1916年の夏、ロシアの女流彫刻家シャナ・オルロフ Chana Orloff がモデイリアニにコラロッシColarossi 画塾に通っていた女学生ジャンヌ・エビテルヌ Jeanne Hébiterne を紹介した。彼女はまだ18歳だった。
映画の中でモデイリアニはセーヌの河岸をジャンヌと歩きながら、河にポケットにあったせっかく稼いだ金を投げ捨て「オレについてくるな」とジャンヌに叫ぶ。それは自らの自虐性、自己破壊の衝動を知っていたこの画家の誠意から出た言葉でもあった。
ポーランド出身のズボロフスキーは詩を書くことが本業だったが第一次大戦で詩や文学は置き去りにされ、生業として画商を始めた。モデイリアニと親しくなり1920年に画家が早世するまで献身的に 支えた。
モデイリアニが描いたズボロフスキーの肖像↑
ズボロフスキーがある日アメリカ人の実業家がモデイリアニの絵を見たがり絵が売れるチャンスだと画家を引っ張ってホテルへ行く。帰り支度に忙しい実業家はモデイの絵を見るや、「この眼が青いところがいい。買おう。いい考えがあるんだ。こんど売り出す新しい香水の箱にこの絵を使うんだ。ポスターにしてあちこちに貼りだそう。」
デリカシイに富み気位が高いこの画家は、これを許すことができない。「ピソチエール(昔パリの街頭にあった小便所)にも貼るんですね」と悪態を吐き勢いよく立ち上がってその場を去る。
モデイリアニは、一枚一銭でも画商が買ってくれるなら売ろうと決心した藤田と違って、どこまでも純粋なオレの心をわかってくれる者でなければそんな俗物に絵が売れるかと、生きるための妥協が出来ない、早世型、破滅型のアーチストなのだ。画家でいえばゴッホ、佐伯祐三、詩人ではランボー、作家の太宰治、檸檬を書いた梶井基次郎……等々。
映画では、アトリエに戻ったモデイリアニは暖房もなく生活費の工面にジャンヌが苦心している姿に憐憫と自責を感じ、デッサンを掻き集めて夜の盛り場に売りに出る。デッサンは一枚も売れず、寒い冬、夜霧が立ちこめる街灯の下でモジリアニは倒れる、という演出になっている。
1917年ズボロフスキーはパリの前衛画廊の女主人ベルト・ヴェイユ Berthe Weill の協力を得て、モデイリアニの32点の絵を出品して初の個展を開いた。しかしヴェルニッサージュ(展覧会の初日:1917年12月3日)官憲が来てウインドウに展示してあった裸婦の絵を外すよう命じた。その他にも数点「わいせつ物展示」の罪に当たるとして取り外しを命じた。ベルトが官憲に「なぜワイセツなのか?」問うたところ官憲は「裸婦に陰毛が描いてある」と答えた。
モデイリアニが描いた裸婦↑ 肌の色が暖かそうだ。
強い個性の持ち主のベルトは官憲の圧力に屈せず個展をその年の大晦日まで続けたが、出端を挫かれ批評にも取り上げられず絵は一枚も売れなかった。
1918年の春、ズボロフスキーは、モデイリアニ、スーチンと藤田を誘い南仏に旅した。ニースやカンヌやカーニュなど気候の良い地でモデイリアニの健康回復を目指したのと、金持ちの観光客の多いこの地で絵を売ろうともくろんだのだった。結局、モデイリアニの絵が一枚売れただけだったが、 お蔭で全員がそこそこ豪華な滞在を楽しむことが出来た。この南仏滞在を機にモデイリアニの絵も明るい安心感を漂わせたものに変わってゆく。
この旅行に同行したのは、ジャンヌ・エビテルヌと若い彼女を監視する為かその母も一緒だった。
ここでも映画では南仏へ行ったモデイリアニを後からジャンヌが追いかけ、明るい太陽の射す浜辺で二人は再会し抱き合う、といった演出になっている。
モデイリアニは南仏滞在中それまで人物画しか描いていなかったが、貴重な風景画4枚を描いた。藤田の影響と言われている。
モデイと藤田はカーニュにルノワールを訪ねた。リュウマチで筆が持てず手に縛り付けて描き続けていた巨匠は、モデイリアニの絵を見てその暗さに注目し「君は絵を描いていて楽しいかね?」と訊いた。モデイは「女のケツばかり描いてどこがたのしいんだ。女は好きじゃない」とまたもや「悪態」を吐いて出ていった。
ジャンヌは1918年11月29日に女児を出産した。同じジャンヌと名付けた。
1919年8月にはズボロフスキーの努力もあってロンドンで開かれたグループ展にモデイリアニも出品し高い評価を得て、絵も数点売れた。ようやく長く暗い下積み生活に明るみが射してきたその矢先、翌20年1月、いつもの通りカフェ・ロトンドで仲間と口論しながら外へ出て、仲間が皆帰った後 どうしたわけかモデイリアニは独り寒い公園に残って夜を明かした。そのため既に末期症状だった肺結核が頭に上って結核性脳膜炎を引き起こし、慈善病院(Hôpital de charité )へ運ばれたが24日息を引き取った。享年35歳だった。
モデイリアニが倒れたと知った画商たちは30人ほどもがジャンヌが愛人の帰りを待つアトリエに押しかけ、そこにある絵を争って求めた。しかし、葬儀に参列した画商は二人だけだった、と藤田は怒りを込めて書いている。
二人目の児を身ごもっていたジャンヌはモデイリアニの死に絶望し、両親の家に戻った翌朝、5階から身を投げ自殺した。
ジャンヌ・エビテルヌが16歳の時の肖像写真↑
ジャンヌの死後、遺児のジャンヌをモデイリアニの妹が養子に引き取りフィレンツエで育てた。 彼女は1958年に父モデイリアニの伝記を書き、1984年に亡くなっている。
モデイリアニをみんなは愛称で Modi と呼んでいたが、それは Maudi 「呪われた者」と懸けた呼び名でもあった。
(つづく)






