セザンヌが自然は立方体、球、円錐形、三角錐など幾何学的立体で構成されていると視て、風景画をキューブの寄り合いとして描いたことに端を発した立体派。
1908年に、ブラックが描いた「エスタックの家 Maison à l'Estaque 」と題した絵を前にして美術評論家のルイ・ヴォー(ク)セルが、「キュービズム」という言葉を発したことがこの呼称が最初に使われた時だった。
George Braque 「 Maison à l'Estaque 」 1908 ↑
翌1909年にはピカソが「ホルタ・デ・エブロ村の工場」を同様な手法で描いた。
しかし、藤田が理解していた「キュービスム」はもっと奥が深くて、単に幾何学立体を組み合わせただけの絵とか、角度を変えて見た対象を同じ画面に貼り付けたとかの皮相的なものではなかった。
それは、アポリネールが言うように
「キュービスムとは、視た眼の現実からではなく、内部のレアリテから借りた諸要素で描く芸術なのだ」というような理解だったにちがいない。
1917年6月のシェロン画廊における藤田の初の個展をピカソが訪れ、展示してある150点の素描をひとつひとつ克明に視て行ったことは藤田を非常に喜ばせた。
「初日にピカソが訪ねて来、三時間にも亘って私の絵を克明に見て呉れました。ピカソは私の絵の眼に触れる表面だけを見ていたというのではなく、私が今後如何に発展するかという、私の十年、或は二十年先の絵のことを考えて見ていました。」(巴里の昼と夜)
藤田が中学生の頃、彼が夢をパリに馳せる事件が起きた。藤田少年が描いた水彩画が日本の中学生の代表作品としてパリで開催された万国博覧会に出展された。1900年のことだった。「パリで私の絵を発表したのは私にとっての一生の糸口だった」と藤田は振り返っている。その頃から藤田はいつかはパリに出て、この芸術の都で自分が描く絵、自分の腕一本で名声を博そうと夢見ていたのだった。
「日本へ帰って成功したとて、日本の中だけの成功で、桃太郎だけでは、私には満足できません。」
先に引いた父親宛の送金は以後無用です、と書いた手紙にもあるように、藤田は少年時代に描いた夢の舞台パリでいよいよその夢を実現する足がかりを得たのだった。
ピカソが藤田の初の個展に来てくれて3時間も克明に観てくれたこと。アンドレ・サルモンの序文にも藤田の線構成の簡潔美や、その精密な全体的調和、大胆なデフォルマシオン、輪郭に対する興味から独立した、筆致それ自身の純粋な描線……などを激賞してくれたことがどんなに藤田を勇気づけたことだろう。
しかし藤田はまだ無名だった。いよいよこれからが本番だ。職業画家として一人前になるための、命がけの闘い、Foujita しか描けない独創的なマチエールの探求と創造への苦闘が始まる。
サロモンとピカソは藤田の絵に未来の可能性を見て取る寛大さを示してくれたが、他の批評家の反応は藤田が日本人というだけで「日本人は狡猾で、猿の如く物真似の上手な国民」とけなしたり、日本から来た未知の才能の成功を認めまいとする排他的なものだった。
そうした誹謗に藤田は「一歩は一歩より、新しい一枚は古い一枚より、煉瓦を積んで行くような気持ちと決心とで営々としてうまずに精進の大道を闊歩」せんと強固な決意を固めた。
「フランスにおける生活の衝突、競争心の激烈さは到底今日日本に見る程度のものではなく、全く死を賭した真剣さであり、むしろ悲壮といっていい位の実際問題であった。」(藤田著「在仏17年」)
そうして藤田は今までにも増して「描くこと」に専念する。一日18時間絵を描き研究するために睡眠時間を5時間に短縮しても耐えられるよう訓練した。「朝の五時から十時まで丸太のように熟睡する修練を積んだ」(同上)。
そして絵を描く時は自分の描いた絵でも目に入らぬように画室にはすべて裏返しに置いた。
「いかなる模倣にも創造はない。自分の観念を支配するかもしれない絵が自分の目の前にない時、そこには必ず進歩したものが生まれるのだ……。」
「一度評判がよかったとか成功したとかいふような絵を念頭にいれてそれをくり返せば悪くなる。先輩大家自分のもっとも崇拝する画家のもろもろの画風の一切を忘れて製作に突進する。ただ自然と自分とが結び合ふ時必ず絵は自然に出来てくるものである。ある時の如きは午後四時に始めて翌(あくる)日の午後四時まで夕食、朝食、昼食を忘れて描き続けたこともあった。食事をすることの興味も失せて、自分が人間界を離れた境涯にあるかの如き思ひで筆を運んだ。」(在仏17年」)
画廊シェロンでの第一回個展の成功に気を良くした画商は、藤田と契約を交わし、同じ年の秋に第2回個展を開く約束をした。
1917年の6月から11月までの間に藤田の水彩画は200枚も売れた。
藤田が古今東西、かつてどんな画家も造ったことがない独自のマチエール、触覚的な地肌の白「グラン・フォン・ブラン(すばらしき白地)」を生み出し、出品した6枚の絵がすべて入選し絶賛を浴びた1919年(藤田33歳)秋のサロン・ドートンヌまでにはなお3年の歳月を要さねばならなかった。
(つづく)