初めて絵が売れた日 Léonard Foujita その⑧ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

藤田は後年、「戦争さえなかったら(第一次世界大戦が勃発し三日も飲まず食わずの極貧生活をしたこと)、私はキュービストとなって、今日の画風も変わっていたかもしれない」(「巴里の昼と夜」藤田嗣治著 12頁)と書いているとおり、パリに到着したばかりの藤田は、モジリアニとの交流もあり、ビザンチン風の聖画を思わせるデフォルメした人物を描いていた。

 

 

 第一回個展に展示した絵のひとつ↑ 「三人の友達または会話」1917年, 紙に墨と水彩 32x48cm

特に大戦が勃発し日本からの送金が途絶えて赤貧の生活を余儀なくされた14年から17年にかけては、絵の具や画材を買う金もなく、包装紙の皺を伸ばした上に鉛筆や墨でデッサンを描いていた。経済的苦境による紙の白と毛筆の黒という材料の制限があったために、反ってデッサンの技術を磨き得たことは前回書きました。

 

1916年にはズボロフスキー、モデリアニ、スーチンとともに南仏カーニュに避難したり、モデル、引越し請負、ペンキ塗り、便所掃除までしながら糊口をしのいだ。

 

藤田がロンドンへ行ったのは何時の事だったか? 明らかではないが、藤田自身が語ったこと書いたことから考えて1914年の終わりから1915年にかけての事だろうと夏堀氏は推測している。

1914年の秋には藤田は「巴里城門」という新境地を開く風景画を描いているし、「ロンドンより帰り二年間また貧乏生活を続けた」と「地に泳ぐ」に書いている。1915年1916年には一連の「聖画」(十字架のキリストなど)を描いた。

驚くべきは、こうした困窮の中にあって藤田は父宛に、勘当してくれ、以後送金の必要はないと手紙を書くのだった。

 

「この上父上のご厄介になりたくはありません。どんな苦労をしてもここに止まって居たいのです。親が子を勘当するかわりに息子の私が親を勘当します。3年という約束を破る私は不孝者です。不孝者には送金する必要はありません。もう日本には帰りません。死んだと思ってください。私も背水の陣を引いて懸ります。切角御大事に御長生を祈り上げます。」(「地を泳ぐ」215頁)

1916年、藤田は30歳(数えで)、満では29歳のことだった。

 

赤貧のなかで描き続けたデッサンがとうとう売れる日がやって来た。

「僕は残した15枚の絵を風呂敷にして雪の中をパリの画商の連なる町へ出て、画商の門を叩いた。画商は老獪狡猾な商人で自分の絵を称賛しなかった。僅かにそのうちの一枚を五十銭で買うといひだした。僕は百円位と自ら価値づけてて居たので――売れない。売ってはならないと断然たもとを払って、画商が同情的に差し出す自動車賃もことわり又スゴスゴ雪の道をふんで帰った。」

その翌日、画商の方から訪ねて来て、部屋にあるすべての絵を買うと言う。

「丁度僕はその前夜自分の作品がたとひ一銭二銭にでもなるならば潔く商人の手に渡してその金で生活しようといふ決心をしてゐたこととて画商の求めるままに一枚七十五銭平均で絵をスッカリ売り渡した。忽ち僕は金持ちになった。空腹も満たした。煙草も吸った。活動写真の安席にゆくことも出来た。僕は僕の絵でたうとう口をのりする事になった。」

「画商は僕の作品を総て買取ることを要求して二か月の後第一回の個人展覧会を凡そ百五十点ばかりの作品で開いた。もちろん自分の当時持ち得た材料は紙と鉛筆より外はなかったので素描の展覧会であった。ところが第一回展覧会は自分の期待しない大成功を収め、ために画商は七十五銭の画を、百円平均で売って、大利を懐にしたのであった。然し自分は何ら怨むところもなかった。……自分の身に日夜迫る飢えを覚えなくなったといふことは如何ばかり僕の精神を安静にしたことか。それは百万の富を得たにも勝って喜ばしい事であった。僕はひたむきにそして熱烈に勉強しだした。」(藤田嗣治著「在仏十七年」)


この第一回個展は1917年の6月、シェロン画廊において開かれ、ピカソの友人、アンドレ・サロモンがその目録に序文を書いた。

 

 

    (つづく)