七人の侍とエクスカリバー アーサー王伝説 その⑲ | 雷神トールのブログ

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ところで日本の熱田神宮にご神体として奉齎されている三種の神器のひとつ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」は須佐之男命が大蛇を退治たときに、尻尾から出てきたとされ、後に「倭建命(やまとたけるのみこと)」に渡され野火に囲まれた命がこの剣で草を薙いだことから別名「草薙ぎの剣」とも呼ばれています。

 

 

 

 

アーサー王伝説と「やまとたける」の伝説を学術的に比較研究されている方日々もおられます。 アーサー王伝説研究会日本支部も存在するんですね。

アーサー王伝説は魔法の甕のように汲めども尽きぬ話題を包み込んでおり、ここではそのごく一部に触れたにすぎませんが、最後に振出しに戻って、「アーサー王伝説」と黒沢明の「七人の侍」の関係について述べてからこの連載を締めくくりたいと思います。

 

少し長いですが、まずはあるテキストの引用から。出典はインターネットの百科事典「ウイキペデイア」。


=== 以下引用 =====


オセット人は、スキタイ、サルマタイ、アラン人などの古代の黒海北岸一帯で活動したイラン系民族の後裔と考えられている。彼らは諸民族と混交を重ねていく中で、アス人と自称したオセット人の先祖がハザールの解体後、カフカス山脈北麓の低地地帯に王国を形成し、カフカス先住諸民族の強い影響を受けた独自の文化を発展させた。

13世紀前半、アス人の王国はモンゴル帝国によって征服され、首都マガスを始めとする諸都市は壊滅的な打撃を受けた。これ以来アス人はモンゴルの支配下に入り、モンゴルの支配を嫌って逃亡した若干のアス人はハンガリーに逃げ込んで同地でヤース人と呼ばれる民族集団になった。ヤース人はその後ハンガリー人への同化が進み、現在はハンガリー人の一部と考えられている。

また、アス人の一部は降伏してモンゴル軍に加えられるとそのまま中国に移住し、元に仕えるアスト人親衛軍を構成した。「アスト」は「アス」のモンゴル語による複数形である。メルキト部出身のモンゴル人将軍バヤンに率いられたアスト人親衛軍は元朝治下のモンゴル高原で行われた数多くの戦争で大きな戦果をあげ、14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変において重要な役割を負うことになる。

 

こうして中国でモンゴル人の遊牧民と同化していったアストの人々は1368年に元が中国を放棄してモンゴル高原に帰るとこれに従って高原の遊牧民の一集団となり、長らくモンゴル民族の 中の部族名としてアストの名が残った。例えば、15世紀前半にモンゴルのハーンを擁立してオイラトと熾烈な争いを繰り広げた有力部族長として、アスト部族のアルクタイという者の名が伝わっている。

一方、カフカス北麓の低地に残っていたアス人も、良質な草原地帯であるこの地方へと遊牧を広げようとするジョチ・ウルスのテュルク系 遊牧民の圧迫を受けてカフカスの山岳地帯へと南下を余儀なくされ、現在の北オセチアに移住して4つの部族集団からなる部族連合を形成した。また、一部のア ス人(オセット人)はカフカス山脈を越えて南下し、南オセチアの領域に入って群小村落共同体を立てた。山岳地帯に入った彼らは民族統一国家を打ち立てるこ とはなく、北オセチアのオセット人は西方のカバルダ人、南オセチアのオセット人は南方のグルジア人の支配下に入る。

17世紀に入るとロシア帝国の北カフカースへの進出が進み、18世紀末から19世紀初頭にかけて、 オセチアの一帯はロシアによって併合された。


==== 引用終わり =====

 

結論を急ぐ形になり読者には何のことか解らないかもしれません。ここで重要なのはオセット人 とモンゴルの関係なのです。

オセット人とは現在のオセチア。そう、北京オリンピックの真っ最中にロシアの戦車が侵入してグルジアと戦火を交えた、あの戦場になったオセチア。

オセチアは現存するオセット人(アラン人)の最後の居住地とされており、この種族が持っていた伝説が「アーサー王伝説」の起源だと主張する新説が近年出版されました。

副題を「スキタイからキャメロットへ」とし、C. スコット・リトルトンとリンダ・A・マルカーの共著。

「アーサー王伝説の起源」という題で、日本訳が1998年に辺見葉子、吉田瑞穂訳で青土社から出版されています。

この書の中で、著者はアーサー王伝説の中心を形作る様々のエピソードと道具立て、聖剣エクスカリバーや荷馬車に乗ってグイネヴィア姫の救出に赴く騎士ランスロット、などがアラン族の風習と伝説とパラレルの関係にあることを詳細に明かしています。

 

その内容についてはここでは長くなり過ぎますので次回に……。

 

 

   (つづく)