ヨーロッパの祖母アリエノール アーサー王伝説 その⑦  | 雷神トールのブログ

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アンリ(ヘンリー) II 世はラテン語を読みフランス語を話しました。プロヴァンス語とイタリア語も解しましたが、英国王のくせに英語が話せなかったという変わった国王でした。

 

 

もっともこの時代、今と違って英語は田舎っぺの言葉で、宮廷では文化の香り高いフランス語が尊ばれていました。特に食卓では「豚」はピッグと言わずポークと言ってました。この習慣が現代も続いてるわけですね。

英国を統治していたこの二人はしょっちゅう旅行をして、大陸はノルマンデイーからシャンパーニュ地方、アキテーヌ地方を動き回っていました。今日、車で移動しても大変な時間と体力を要するのに、馬と馬車で移動したのでしょうから、驚きます。ある臣下が重要な用件で王様を捉えたくてもなかなか居所がわからず何カ月も探し回ったという手紙が残っています。

 

ヘンリー II 世とアリエノールの間には5男3女が生まれ、そのうちの一人が、リチャード獅子心王で、 末っ子が後のイングランド王ジョン(欠地王)です。

ヘンリーに愛人ができると二人は別居し、アリエノールは独自の宮廷を構え、吟遊詩人やおおぜいのアーテ
ストに取り巻かれて暮らしました。これがフランスの中世からルネッサンスにかけての文学の苗床になったのですね。奔放な性格のアリエノールは沢山の愛人を持っていました。

1173年、次男の若ヘンリー王が共同統治者であるヘンリー II 世に反乱を起こし、息子に加担したアリエノールはヘンリー II 世に捕えられ投獄されてしまいます。以後15年間、監禁生活を余儀なくされます。

 

1183年、こんどはリチャードが反乱するとまた息子を支援します。後にリチャードが即位し、第3回十字軍を率いて遠征していた間は、摂政としてアンジュー帝国を統治しました。

息子の中ではリチャードが一番のお気に入りでリチャードのロマンテイシズムは母親ゆずりといわれています。またリチャードがオーストリアに人質として捉えられるとアリエノールは自ら馬でオーストリアまで行き息子を釈放するようネゴをしました。

アリエノールは当時としては稀な長寿を全うし、末っ子のジョンがイングランド王のとき、1204年に80歳で歿しました。晩年は、ロワール河畔のト
ールの近くにあるフォントヴローの僧院で暮らし、現在もこの僧院には墳墓を飾る寝姿の彫像が安置してあります。

 

 

彼女自身も多産でしたが、カステイリヤに嫁いだ同名の娘が多産だったので、政略結婚によるアリエノールの血筋はヨーロッパ各国に広がり、後世ヴィクトリア女王と並んで「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるようになりました。

しかし、アリエノールがフランス王とイングランド王の両方と婚姻関係を結んだおかげで、広大なアキテーヌ公領をめぐる領有権問題が発生し、これが遠因となり英仏百年戦争が起こったのでした。

  (つづく)