ジョニーの民衆葬儀 | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

この日(9日土曜日)パリの空は晴れ渡り、早朝から零度近くに冷え込む中、ひとめでも棺を観ようとファンが詰め掛けた。写真の通りお年寄りが多い。(画像はテレビからお借りしたものです)

 

 

推定では50万人がロックスターとの別れを惜しんでシャンゼリゼ、コンコルド広場、マドレーヌ寺院へ通じるロワイヤル通りを埋め尽くした。

 

 

 

ジョニーが愛した単車ハーレー・ダヴィドソンに跨るバイカー(モタール)たちは、霊柩車を先頭に家族を乗せた葬送の列に同行しようとブローニュの森のポルト・ドーフィンヌに集合した。その数780台。

 

 

 

安全を期して警察は120台のみを許可した。

 

 

 

1960年代初頭にデビューしたこのロックシンガーが現在すでに70歳台のお年寄りから40歳台と幅広い年齢層の心をどんなに強くとらえていたかがわかる。

「いちど彼のコンサートを経験したら決して忘れられない強い感動を与えてくれました。もう観ることが出来ないと思うと悲しくて」

中には泣き崩れる中年の男性や婦人がいた。

 

 

ジョニーはコンサート(パフォーマンス・ショウ)の指揮をとってました。どんなに激しい動きの中でも演奏者に視線を当て、タイミングのサインを送ってました。信じられない力です。ジョニーのコンサートのほとんどの演奏を務めたピアニストが言った。

彼は最後の最後まで力を出し切って、ファンのために演じてくれました。去年の7月14日の夜コンサートの最中にニースのテロ襲撃のニュースが伝わると、ジョニーはコンサートを即座に犠牲者追悼のために切り換え明け方の5時まで延々と続けたのでした。いつも全力を尽くしてファンのためにすべてを投げ出したアーチストでした。

 

 

 

去年だったかカリフォルニアでのコンサートの最中にジョニー倒れるとのニュースが伝わり数日間入院していたが、病気を克服し再生した。

たびたびの病魔との闘いにも打ち勝ち、死と闘いながら、生きる勇気を、生きることの喜びと悲しみを「自由と愛」への誇りを悲しみを内に秘めながらも激しく力強く主張し続けたのだった。

 

 

ジョニーは非常に稀な幅広い声域を持った歌手でした。ふつう、レイチャールスにしても、ジョンレノンにしても高音に優れた歌手はほとんどの歌の声域が高音に絞られていますがジョニーはとても繊細な高音部の連続から同じ曲の中で激しい野性的な力強い男性そのものの低音の歌へと移行できる歌手でした。ある音楽評論家がこうジョニーの特徴を讃えていた。

 

会堂の中でチェロを演奏するゴーチエ・カピュソン↑

 

60歳台~70歳台のファンはジョニーの死とともに自分たちの青春が終わり、またジョニーの棺を
見送りながら「あるジェネレーション」の終焉を感じ悲しんだに違いない。めのおもその一人だが……。

ジョニーは1943年6月15日にパリでベルギー人の父とフランス人の母の間に生まれた。本名ジャン・ピエール・スメJean-Pierre Smet。フランス国籍を取得したのは1961年で18歳になってから。

父親はベルギーでアルコール依存症から抜けられずホームレス同然の悲惨な生活を送っていた。それを知ったジョニーはパリに父親を引き取り自分の衣装係として俸給を払い、アパートも借りたが、父親はある日アパートに火を点け、逃げ出した。その葬儀は悲しいものだった。

歌手のシルヴィーヴァルタンとは1965~1980年まで結婚生活が続き、二人の間に息子のダヴィッドが生まれた。

 

しかしふたりの歌手の結婚生活は永くは続かず、1981年に離婚。ジョニーはその後短い期間アメリカ女優と結婚したがすぐに離婚。

 

演劇で共演した相手役の女優ナタリー・バイユと1982年に結婚。この時のパリ西郊のヌイイー市役の市長だったサルコジ元大統領が結婚式を執り行った。二人の間に娘さんのローラが生まれた。

 

 

息子のダヴィッドとローラにお悔やみの言葉を掛けるマクロン大統領夫妻↑

 

ナタリー・バイユとも離婚した。ジョニ―の最後の伴侶はレテシア(Laeticia) 夫人。二人はヴェトナム生まれの二人の女の子を養子にもらい受けた。 それが ジャッド Jade とジョイJoy。


棺を前に、左からブリジット大統領夫人、一人置いてジャッド、レテイシア夫人、ジョイ。娘さんのローラ、右端は息子のダヴィッド↑

遺体はジョニーの遺言で家族と親しい人々と共にチャーター機で別荘があるカリブ海のサン・バルト(セント・バルテレミー島)に運ばれ埋葬される。

 

  Y(>_<、)Y