二人の大アーチストの死 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

今週の月曜(4日)から5日にかけての夜、フランスは作家のジャン・ドルムッソンを失った。

ついで5日の朝、ロック歌手で長年の間絶大の人気を保っていたジョニー・ホリデイが亡くなった。

今週のラジオ・テレビは、この二人にまつわる特別番組でもちきりだった。

 

ジョニー死亡のニュースが伝わるとトウイッターやSNSにメッセージが飛び交い、1分間に数万件という数で、1時間内には50万を超えた。

 

 

マクロン大統領は訪問中のアルジェリアから「国民的英雄を失った」とメッセージを送った。ジョニーの最初の結婚相手、歌手のシルヴィー・ヴァルタン、2番目の同伴者俳優のナタリーバイユとその家族も悲嘆にくれている。死因は数年前から入退院を繰り返していた肺癌。享年74歳だった。

国葬にする、とかの噂も飛んだが、家族と相談の結果、国の政治に関わる仕事をした人ではないので国葬とはせず、民衆葬とすることになった。葬儀は土曜日にマドレーヌ寺院で執り行われると。ニース、ブリュッセルでは即座に「ジョニー・ホリデイ通り」を街に作ると発表した。

マクロン大統領夫妻も葬儀に参列する。

16歳でデビューし、以後60年間の長きにわたりスターの座を守り続けた。独特の渋みのある力強い声。この声量を維持するため毎日3時間のトレーニングを欠かさなかったという。

 

 

ハーレーダビッドソンを愛し、モタール(オートバイ乗り)の黒の革ジャンにジーンズスタイルはずっと変わらず、脚を逆V字型に開いて背筋をまっすぐ伸ばす姿勢はひと目でジョニーとわかるトレード・マークだった。

 

ヒットした歌の数1200.売り上げたレコード、CDの総数はなんと1億枚を超える。フランスのプレスリー、60年代から70、80年代に掛けてのベビーブーム、団塊の世代を代表する歌手だった。

フランス・シャンソン界で最長老のシャルル・アズナブールは、「私の人生で、訃報を聞いてもっとも悲しい喪失感を味わった人が4人いる。ジャン・コクトー、エデイット・ピアフそして今日のジョニー・ホリデーとジャン・ドルムッソンだ」と悲報に接しメッセージを残した。

 

 

めのおはジャン・ドルムッソンという作家の良い読者ではないので作品に触れることは出来ないが、ある「縁」によって繋がりがあるので、この訃報にも心を動かされた。

 

その「縁」とは、めのおが現在住んでいるサン・ファルジョーという北ブルゴーニュ地方、ヨンヌ県の田舎の村にあるシャトーで、ジャンはこの城で生まれたからである。

 

 

この城は二度の火災に遭い、観光の対象となるにはあまりに落ちぶれているのだが、歴史的に非常に由緒あるシャトーなのだ。

この城を中心に書きたいと思います。

 

ジャン・ドルムッソンの特徴は、国民的作家、読者層の厚さ、文学的位置は日本の作家でいえば、中身は全然違うとしても夏目漱石に似ているかな。漱石は朝日新聞の顧問のような地位にあったし、オルムッソンも日刊紙フィガロのデイレクターを務めた。ユネスコに勤めた時期もある。父親がフランス大使でドイツ、ルーマニア、ブラジルなど、ジャンは子供のころから外国に住み国際感覚を身に着けて育った。

ジャンが生まれたサンファルジョーのシャトーの入り口↓。

 

 

この城は、フランス大革命で重要な役目を果たし共和国の最初の犠牲者として悲劇的死を遂げた
ルペルチエが城主だった。昨夜の特別番組で確認できたのだが、ジャンドルムッソンの母親がルペルチエの直系の子孫で、ジャンもルペルチエの血を引いてるんだね。

ルペルチエは若干22歳にしてパリ高等法院、後の国民公会の代議士となった人で、死刑に反対を唱え、初等教育の公教育化(児童を国が経費を負担して無償にする)法案を国民公会に提出すべく書き上げていたが、直前暗殺され、ロベスピエールが代わりに読み上げた。

暗殺されたのは、ルイ16世は有罪であるから死刑に処すべきだ、というサンジュストなど山岳党(議席が議事堂の高い位置にあったのでこう呼ばれた)、ジャコバンの法案が議決にかけられた時に「国王処刑」に賛成票を投じたためだった。

1789年7月14日のパリ市民によるバスチーユ攻撃のあと、フランスは一時的だが君主制議会政治を採っていた。国王ルイ16世も国民公会に臨席していた。しかし、オーストリアはじめ隣国の貴族たちとフランスの共和政を覆すために連絡をとっていた手紙が国王の書斎の隠し戸棚から見つかり、「国家反逆罪」で死刑に処すべきと議論が勢いを増し、ついに議決にかけられた。

結果は、たった1票差でルイ・カペー(ルイ16世)の処刑が可決し、即座に処刑が行われた。死刑賛成票は「執行猶予付き」が二十数票あったのだが、ペルチエが投じた「執行猶予無し、即刻死刑」が1票差で過半数となり執行された。

ペルチエが唱えていた「死刑反対」は現在のような人道的見地によるものではなく、死が犯罪の抑止力にはならない、という見解によるものだった。

ペルチエの他にもうひとり国王の兄弟にあたるオルレアン公が死刑に賛成票を投じた。

ルイ16世処刑が決まったその日の晩、オルレアン公を暗殺しようとパリのパレ・ロワイヤルに忍び込んだ一人の男がいた。パリスという名のルイ16世の元護衛官。

 

しかしオルレアン公は大勢の人に囲まれ暗殺は不可能とみたパリスは偶然宮廷の一隅で休息していたルペルチエに「おまえはどちらに投票した?」と問いかけ、ルペルチエが「良心に従って死刑に投じた」と答えるやパリスは携えていた剣を抜き、ぐさりと一突き。ルペルチエは数時間後に息を引き取った。

徳川時代の江戸に各藩が藩邸を構えていたように、サンファルジョーもパリに館を持っていた。現在その建物が「カルナヴァレ博物館」と言う名でフランス大革命の遺品と関連資料を展示している。

ルペルチエの遺体は一晩、ヴァンドーム広場に安置され、死の床にあった姿を画家のダヴィッドがデッサンし後に油彩画にした。しかし、夫の悲劇的な最期を悲しんだあまりルペルチエ夫人はこの絵を買い取り、焼却したか城のどこかに隠したかして消失してしまった。

 

サンファルジョーの城が今の姿になったのは17世紀、ルイ14世がまだ幼少の頃起こった「フロンドの乱」の後である。

 

ルイ14世の叔父、ガストン・ドルレアン公の娘、つまり姪にあたる通称「グランド・マドモワゼル」で通っている女性は、大胆活発な性格で、フロンドの乱の味方をしたのだった。この乱は、宰相マザランがスペインとの戦争を続けるために町人への課税を上げたためにパリに反乱が起こり、それを沈めるために北方戦線で多大な戦果を挙げていた「大コンデ公」が呼び寄せられ、この勇猛果敢で戦術に長けた軍人は王位継承権の筆頭にある重要人物でもあったのだが、反乱を一ひねりで沈めてしまった。

 

ところが反乱側の指揮者に祭り上げられていたのが大コンデ公の弟のコンチ公。兄弟相通じるところがあってか、兄弟愛がイタリア人の宰相マザランの命に服すことを拒んだのか、様子をみて身があやういと察した宰相は兄弟を逮捕させヴァンセンヌついでル・アーヴルの監獄に閉じ込めてしまった。

オルレアン公や宮廷に出入りしている婦人方の運動が功を奏し1年後に兄弟は釈放されるが、投獄された大コンデ公はこんどは反乱側の総大将となり、ボルドーへ行き、ラ・ロシュフーコーを味方に付けるなど軍を編成しパリに攻め寄せた。

 

サンファルジョーのすぐ近くのジアンとブレノーの戦いでは、チュレンヌ将軍率いる宮廷軍を追い詰め、ジアン( Gien )の城で休んでいた幼い国王ルイ14世をあと一息で捕虜にするところだった。

7月2日パリのサンタントワーヌ街で再びチュレンヌの宮廷軍と対峙する。この時はコンデ軍はパリの外から包囲されたパリを解放しようと進んできた。

バスチーユ監獄の砲台から大砲がチュレンヌ軍めがけて発射された。グランド・マドモワゼルがコンデ親王をパリへ入場させる為に発射させたのだった。

グランド・マドモワゼルは、アンリ4世の3番目の息子で、ルイ13世の弟(つまりルイ14世の叔父)のガストン・ドルレアンとモンパンシエ夫人の間に出来た娘(ルイ14世の従妹)で、名前をアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンという。

この事件をルイ14世とマザランはペールラシェーズのシャロンヌの高台から観ていた。

 

後(同年10月21日)にグランド・マドモワゼルは追放令(流罪)を受け取る。

 

こうして、めのおが住んでるサンファルジョー村へ一種の流罪(島流し)で来たのだった。そうはいっても国王の姪たる人物、ヨロッパでも有数の大金持ちなことから、もともとあった城砦をヴェルサイユ宮殿を設計した建築家ル・ヴォーに依頼して古典様式の城館に建て直したのだった。

 

 

それから4年間、グランド・マドモワゼルはここで、当時ヨーロッパでもっとも豪華なサロンを開き、文人を招き、雑木林と牧草地ばかりの田舎に華を咲かせたのだった。

1652年から4年間、サンファルジョーの城で暮らす間にグランド・マドモワゼルのサロンに出入りした文人は、ラ・ロシュフーコーは勿論、セヴィニエ夫人、ラファイエット夫人、作曲家のリュリー、建築家のル・ヴォーなど。

 

サンファルジョーの城は2回も大火に遇い、見る影もなく落剝し、現在も内部が修復されていない。

 

こんな大きな城を修復するには莫大な経費が掛かり、後に城主となったジャン・ドルムッソンはやむなく城をある建築家に二束三文で売り渡した。それこそめのおが買った民家と同じくらいの値段で。

 

ただ、新しくオウナーになった建築家には修復をするという条件を付けて……。

 

大革命当時のサンファルジョーの城主、ルペルチエは、フランスで最年少で高等法院の裁判官となった人。

 

ルイ16世の処刑に賛成票を投じたため、護衛官パリスにパリのパレ・ロワイヤルで刺殺されてしまった。

 

ルペルチエが死ぬ直前に国民公会に議案として提出準備をしていた「国民教育案」はコンドルセの公教育論とともに現代の日本にも義務教育の拡大という形で、教育費の公的負担が議論されることにつながっている。

 

こんなわけで作家のジャン・ドルムッソンがルペルチエの血を引いていることは彼のものの考え方、書き残した膨大な数の書籍にも影を落としているだろう。

 

 

巷では「幸福の作家」と呼ばれたりしていたが。「世界に不幸な人がいるかぎりほんとうの幸福を味わうことはできない」という言葉を残したり、アカデミー・フランセーズの会員に選ばれ、またこの学士院(アカデミー)に初の女性会員としてマルグリット・ユルスナールを迎える時、歓迎のスピーチをジャン・ドルムッソンがおこなった。医者、科学者、文化人などすべて男性が支配してきた学士院に女性を迎え入れることには勇気が要った。例えば文化人類学者のレヴィー・ストロースも反対したという。

ジャン・ドルムッソンは貴族の出身ながら、常に弱い人々への思いを欠かさず世界の動静に目を配り、勇気ある発言をたびたびした。保守でありながらアナーキズムに近い既存の慣習にとらわれない自由な思考を発し続け、多くの国民に愛された国民的作家だった。

 

フランスの「ユマニスム」の伝統を引き継ぎ、地中海文明が好きだと、またコミュニストでシュールレアリストの詩人ルイ・アラゴンが好きで、自分の書くものがついにアラゴンの文章に及ばない、と晩年まで嘆いたりした。

国民的人気があったため、テレビのデベートにたびたび引っ張り出され、明快でユーモアに溢れたやりとりを見せた。

書くものはカンマや大文字のひとつひとつに細心の注意を払い、何度も推敲を重ね、多い時はひとつの原稿を15回も書き直すことがあった、と一人娘で父の書いたものの出版を担当されていたエロイーズさんが証言した。出版された作品の数は40を超える。

「死は怖くない。生と死はひとつのことで、生まれたときから死が始まるのだから」

2013年に癌がみつかり闘病生活を55年連れ添った奥さんのフランスワーズ(製糖会社のビガン・セイの娘)が支えていた。

享年92歳。死因は心臓麻痺。自分はカトリックで葬儀もカトリックで行う、と自ら言っていた。アンヴァリッドでマクロン大統領出席のもと葬儀が行われる。

特番では過去の番組でジャンが答えた部分を多く見せてくれたが、その中で野心があるとしたらなんですか? という質問に
「日本には人間国宝というものがあって生きたまま国宝に指定されるそうだが、私の野心といえば、人間国宝になることだなあ~」と笑いながら答えていた。

アカデミーは母のために会員になったが、文学のためには制度( institution )だから良くない。でも、プレイヤッド版は文学のためになるから好い、とNRF - フランスの文学叢書 LA PLEIADE に作品集が入ったことを喜んでいた。

めのおが読みたい本がまたひとつ増えた。

 

  

 

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