ロビンソン その② | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

少年文庫でお馴染のロビンソン・クルーソーが難破船から海に落ち波に運ばれて島の海岸に打ち上げられた時に、身に着けていたものはパイプとタバコ、それにマッチだけでした。マッチが海水に漬かってもダメにならなかったのは不思議ですが船乗りは常時防水が利いた袋に入れてるのかもしれません。

 

 

最初は衣類も、道具も飲料も食料もなかったのですね。しかし幸い難破船が岸に近い岩場に座礁していたので、船に上がり、必要なものを手に入れ、板を剥がして筏を作り、船員の物入れを空にして、衣類、食料品、道具類、酒、そして身を守るための
武器(銃と弾薬)を手に入れます。

食品の中には穀物が入っていました。麦を撒いて自作農を始めるわけです。

次には野性の山羊を落し穴で掴まえ、牧畜も始める。面白いのは弾薬をいざという時のためにとって置き、山羊は銃で撃たず落し穴で捕えるってとこですね。

ロビンソンは島に流された最初から、猛獣とか野蛮人とかに襲われることに恐怖を抱いている。そこで防衛手段がどうしても欲しいと考えるわけですね。たった独りでも、いや独りだからなおさら防衛力が必要と考えるわけです。

 

現代になっても、隣国が攻めて来やしないか核弾頭を搭載したミサイルが怖いから充分対抗できる、いや先制攻撃能力をも備えた自衛軍が必要だと主張する政治家と賛同する大多数の国民となんら変わらないってことですね。

防衛のためにロビンソンは砦と住居を築くにふさわしい地形を選び、周囲の森や難破船から運んだ木材などを使って砦を築きます。

山羊は杭で囲い込地に放牧し、雄と雌を掴まえて増やします。

 

小麦は畑に適した場所を選び耕作し、収穫の一部を翌年の種蒔き用に取って置き、穀物蔵の中に貯蔵します。

つまり狩猟採取生活から農耕生活へと人類が辿った道を進むわけですね。

「収穫を貯蔵し未来に備える」ことによって長期滞在を物質的に確保する。

「ロビンソン」という断片を20世紀前半のフランスの詩人ポール・ヴァレリーは書き残しています。

「今日の労働の成果を翌日に移転する術を知り得たことは人類(またほかのいくつかの類)の最大の勝利だ」

という一行をこの断片に見ることができます。

 

「中流の生活がいちばん幸福だ」と父が諭すのを振り切ってロビンソン・クルーソーは「ビーズ、玩具、小刀、手斧、ガラス小物」といった「ガラクタ」でアフリカの砂金・象牙を入手する「ギニア交易」を行ない、ブラジルでは砂糖プランテーションを経営し財を築きますが、そうした日常に飽き足らず、アフリカで黒人奴隷を仕入れてボロ儲けする奴隷貿易に手を出したくて船に乗り込み難破するわけです。

「なんの必要があって、安定した財産を捨て、改良され拡張され続ける実り豊かな農園を捨て、黒人を買いつけにギニアに行く船の貨物上乗人【うわのりにん、商船乗組みの船荷監督】になどなったのか?」

ロビンソンはそれを人間の疫病であり原罪だと書きます。

 

「その疫病とは、神と自然が定めた境遇に満足できないということである。私の生まれついた境遇や父親の立派な忠告のこと、その忠告にそむいたことがいわば私の原罪であろうが、そこまでさかのぼらずとも、その後に引き続いて犯したおなじような過ちが、今日の悲惨な境遇を招くもとになっている」 

ただ、ロビンソンの生き方は、冒険家のそれではなく、18世紀産業革命が勃興し始めたばかりの英国の中産階級の生き方がそのまま反映されています。

 

「大英帝国建設期の植民地主義」が、また「原始蓄積期の資本の原罪」が書き込まれてるわけです。

ロビンソンが流れ着いた当初では島では人間がロビンソン独りだけなので孤独なのですが、座礁した船から連れて来た一匹の犬、二匹のネコ、一羽のオウム(多少会話もできる)が伴侶として生活を共にします。

後に、人食い人種の捕虜として砂浜に連れてこられた他の島の原住民を助け、フライデーと名づけて助手にし人間の伴侶もできますよね。

冒険には出たけれど島での孤独な生活をロビンソンは極めて合理的な思考によって生き抜くわけです。

聖書を読み、日記を付け、はては損得のバランスシート(損益計算書)まで記録します。

 

現実的な計画を立て、それに従って合理的に行動する、そして経済的余剰を最大にするばかりか、再生産の規模をますます大きくしていこうという方向に向かって、合理的に行動します。

マルクスは多分「余剰価値」という視点で、またマックス・ウエーバーは「プロテスタンテイスムと資本主義」の関係でロビンソンの生き方を経済学の観点から見ています。

文学者よりも経済学者からロビンソン・クルーソーという小説には関心が持たれているようです。

 

文学者の小説ロビンソン・クルーソーへの評で面白いのは英文学者で「文学論」を書いたかの夏目漱石です。

面白いのでちょっと長くなりますが恐れず引用させてもらいます。

「……ロビンソン・クルーソーの如きは山羊[やぎ]を食う事や、椅子[いす]を作る事ばかり考えている。全くの実用的器械である。このクルーソーを作ったデフォーもやはり実用的器械である。彼の作物[さくぶつ]には、どれを見てもクルーソーのような男ばかり出て来る。そうしてこれが英吉利[イギリス]国民一般の性質である。
彼らは頑強である。神経遅鈍である。また実際的である。彼らの仕事は皆クルーソー流に成功している。
南亜[なんあ]を開拓した手際[てぎわ]は正にクルーソーである。香港[ホンコン]をあれだけに蒼くしたのは正にクルーソーである。(夏目漱石、文学論 p.280)

もし文章の一極端に詩と名づけるものがあって、反対の極端に散文というものが控えているならば、もし詩が道楽で散文が用事とすれば、もし詩が面白い座談で散文がさっさと片付けべき懸合事[かけあいごと]とすれば、デフォーは決して詩に触れない男である。触れ得べき性質を有していなかったのみならず、触れることを屑[いさぎよ]しとしなかった男である。否[いな]頭から詩を軽蔑した男である。(同書・下pp.237-8)

デフォーは日常の事実以外に何事をも書かぬ人である。『ロビンソン・クルーソー』の如き漂流譚[ひょうりゅうたん]ですら車夫が車を引くような具合に書いてある。だから自然といえば尤も自然に近い作者である。それが長くて読みづらいのは、自然不自然の点から起ったのでない事は明らかである。全く構造の点から来たものと私は信じている。

世の中は纏ったものではない、冗漫極ったものだという人がいる。それは同意しても好い。しかし自己が世の中を観察する態度がきまると、世の中も存外締[し]め括[くく]りのあるものである。この締め括りのある観察を筆にしたのが小説である。
世の中が冗漫だといって、自分が冗漫な事には頓着[とんじゃく]せず、無頓着に冗漫なものを書いてこれが世の中だという。世の中かも知れないけれども、世の中をどこから見たのか分らない。現に世の中を見せられても、明らかな印象がちっとも起ら
なければ、見せてもらわないと一般である。(同書、p.244)  」

以上引用終わり

 

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